黄昏の太陽
何故なら、そのゲンコツの主の男子――篠原の予想外の一撃に驚いた僕は、自分の椅子の硬い背もたれから滑り落ちそうなまでに背筋を反り返らせて、後ろに飛び上がってしまったのだから。
結果、事故が起きた。
なんと後ろの席の子に、後頭部から手加減無しの頭突きを見舞う羽目となったのである。
文字通り、凄まじい衝撃と音が、僕の脳天にこだました。
声にならない悲鳴。そのまま、後ろの哀れな被害者に気を使う余裕そっちのけで、僕は鈍痛に頭を抑え机にうずくまってしまったのだった。
「お、おい、ヒロ……ム? 大丈夫か」
苦痛にどんよりと曇った意識の中、やけに遠くの方から篠原の声が響いた。
走馬灯さえ今なら見えそうな勢いだった。逆説的には、そんな無駄なことを考え付く意識はまだあるわけで、そういう意味では自分の生をひしひしと実感させられる。
と言うよりも、ここでうっかり昏倒している場合ではない。
苦痛を押し殺して無理矢理我に返った僕は、キィキィと軋む自分の木机の両端をまだ震える手でわし掴んで、悶絶の表情を浮かべながら上半身をぶり起こした。
「あた……篠……原! なんで僕――オマエこの……ごめんな……さい。本当に」
まともに要領を得ない片言の羅列が、朦朧とした僕の顔面から篠原に向かって噴出した。
「悪い。つーか、何だ……」
相変わらずぶっきらぼうな様相の篠原は、僕の背後の何かに対して、目配せの仕草を向けた。
すぐさま嫌な空気を察知し、一気に冷静さを取り戻した僕は、感情に任せて持ち上げてしまっていた自分の机を、ことん、と床に軟着陸させた。
無口、且つ無愛想にして、無遠慮で無配慮な篠原が、いつものように簡素で直接的な物言いをしないときは、とにかく何かしら拙い裏が潜んでいる。
しまった、そういえば、そうだった。ようやく、断片化して混乱めいていた事実関係の把握完了、パズルのピースがつながったと言う奴だ。
そう、僕は、後ろの席の誰かさんの尊い犠牲を、無碍にしてしまったのだから。
しかし、これはしまったなどと後悔し贖罪するような時間的猶予を、神様仏様は僕に与えなかった。そんなことを考える暇もなく、誰かの手が背後から僕の首筋に絡んできたのだ。
やけに冷たい温度を伴ったか細い十本の指先が、するりと僕の喉笛を締め付け――
「ちょっと、宏夢クン、さ」
――指先の主は、濁点混じりの呻くような女子の声で、僕の名を恨めしそうに呟いた。
そう、こともあろうに僕という不届き者は、後ろに居たであろうか弱き女子に、盛大に頭突きをぶち噛ましてしまったということらしい。不可抗力とはいえ。
鼓動が、あまりのことに一瞬止まりそうになった。それどころか、女子に直接肌を触れられていることが、僕の混乱に華麗なる追い討ちをかける。
そもそも僕は女子に免疫のある方ではない。というか女子に接点がある方ですらない。自虐的表現をすれば『彼女いない歴=年齢』という定番プロフィールの持ち主なのだ。
しかも、物心ついた頃からずっとタバタ呼ばわりだった僕のことを下の名前で呼ぶ人物など、家族と悪友篠原を除いては初めての体験だった。
初めは冷たかった彼女のその指先は徐々に温もりを帯び、しかし一刻も早くこの僕を絞め殺そうとはしない。首筋にやさしく添えられた指先に、体温を奪い取られるような錯覚。まるで異性に弄ばれているような、僕のそれほど長くはない人生において前例のない、異質な出来事だった。
僕は、相手が誰なのかを、この目で確かめたくなった。
僕の記憶が確かならば、一つ後ろの席の住人は女子ではなかったはず。つまり、別の席の女子が、この休み時間限定で、僕の後ろの席を陣取って友達衆と談話でも勤しんでいるという寸法に違いない。
しかし、その指先の主の正体を見極めようにも、背後から僕のこの首にかけられた手のせいで、彼女の方へ強引に振り向くこともままならなかった。僕が暴力的な振る舞いを見せなければ、の話だ。
被害者が予想外の方法で僕に報復してきたがために、僕が何かしらの行動を起こすのに躊躇していた、その矢先のことだった。
膠着した時間を無粋に断ち切った篠原の台詞は、至極シンプルなものだった。
「おい、お前……………………鼻血……出てんぞ」
僕達のことなど眼中になかったかのようなクラス内のざわめきが、その瞬間、氷結した。沈黙と静止。それまで思い思いだった周りのクラスメート達の視線が、一斉に僕達の方に集まる。
何故か女子に首を絞められてる体勢の僕。これだけ取っても、奇天烈な構図に違いない。まるで珍獣でも目撃したかのような、クラス中の絶句と奇異な視線が痛かった。
そして、鼻血。
笑えない沈黙。
ワンテンポ遅れて、えっ、素っ頓狂に驚く声が、僕と背後の彼女とで、それはそれは見事にハモった。篠原の台詞が僕を指して言ったものでないことに気付くよりも早く、何気に心地良かった彼女の指先の感触が、枝を離れた鳥のように宙に飛び立ってしまった。
そして、慌てて振り向いた僕は、目の当たりにした。
黒髪の、ともすれば男の子のように見えるほど短く整えられた、ベリーショートの髪型。
くりくりと大きな目。その瞳は、一瞬キョトンとしてから表情豊かに僕を見据える。
こんな娘、うちのクラスに居ただろうか。記憶があやふやだ。
白い制服から白くか細い首と白くか細い腕が覗き、先ほどまで僕を触れていた指先は、動揺の表情を浮かべつつ宙をひとしきり泳いだ末、彼女の小さな顔の小さな鼻筋に辿り着いた。
そして、ようやく気付く。
鼻血まみれの彼女。
ぽたり、と鮮血が手のひらに零れ落ちた。
篠原に言われるまで、自分では気付かなかったのだろうか。
見る見るうちに涙目の混じる彼女の表情が、ふと思い出したように、わざとらしいほど僕を意地悪く睨み付けた。
どこかまで本気で、どこかまでが演技なのか。そんなことは、今は知る由もない。
次の瞬間、彼女の傍らに居た別の女子が、それではお返しにとばかり、僕を思いっきり殴り飛ばしたのだから。
これが、彼女――向日葵
ムコウアオイ
と僕の、衝撃的な出会いだった。
†2
「ほーらぁ、ここは男の子らしく謝ってきたほーが、簡単に仲直りできると思うの」
高根沢さんの少々間延びした声が、保健室前のしんと静まり返った廊下に響き渡った。
これではわざわざ声を潜めている意味がない。完全に保健室の中まで会話が筒抜けだろう。
傍らで僕の背中をしつこく突付き続ける小柄な女子――高根沢未姫
タカネザワミキ
。
この高根沢さんは、僕のまだ数少ない顔見知りのクラスメートの一人で、不本意ながら僕の悪友ポストに『無断で』居座っている篠原澄哉
シノハラスミヤ
の、あからさまに不釣合いな幼馴染みだ。