The Fragrance of Rain
雨はコンクリートを激しくたたきつけながら降り続いていた。風が次第に強くなる。生ぬるい南風は湿気をたっぷりと含み、不快感を誘うような粘りを帯びていた。その風は窓際に座り込んでいるシノの長い前髪をなぶっていった。
「『部屋』の話ってしたことあったかな。」
サカキは雨が当たらない場所に身体を移しながら、誰にいうとでもなくそういった。彼が落ち着いた場所の真後ろにシノの膝があった。サカキの背骨当たりに、裾をまくり上げたズボンから覗く、シノの角張った膝が当たっている。隠微な熱がサカキの背骨に伝わる。現実感を帯びたそれに、寒くもないのに知らず一つ、彼は身を震わせた。
「人間は、うまれつき部屋を持ってるんだ。広さも、形も大きさもばらばらのな。その部屋は、基本的に他人がやすやすと入り込める場所じゃあ、ない。他人が入り込める領域は、他にある。ゲストルームとか、そういった感じのな。」
シノは、サカキが誰ともなく話し出した内容をおとなしく聞いていた。理解できるかどうかはともかくとして、部屋の話は彼にとっては興味深い内容だったからだ。シノの膝には、サカキが声を発するたびに微かな振動が伝わってきていた。人間は、もしかすると全身で言葉を発しようとしているのかも知れない、彼は唐突にそんな考えに至った。
「その部屋に、間違って足を踏み入れてしまうことが、良くある。人間関係の難しさは部屋に入り込まれたときの難しさと同じだ。」
「間違っているとか、いないとか、それってどうやってわかるの?」
シノは思わずそう聞き返した。そもそもサカキの話は観念的に過ぎてわかりにくかった。サカキはわずかに首を巡らせて、眼球だけでシノを捉えた。その瞳は、少しだけ絶望の色を孕んでいるようにシノには感じられていた。だが、やはりなぜサカキが絶望しなければならないのか、それがシノには分からないのだった。
「その人物が、部屋に『入ってきた』らわかるんだ。その人間が確かにこの部屋にとどまっていることができるのか、あるいは出て行かなければならないのかが。お前にだって分かる。・・・いつかはな。」
サカキはもう一度身震いした。それをシノの膝は正確にとらえた。身震いを隠すようにサカキはまた胸ポケットから新しい一本を取りだした。最近本数が極端に増えた、とは感じていたが、だからといって彼にとって吸うことをやめるための理由にはならなかった。
フィルターに歯形がつくほど噛みしめているのを感じた。何に対してかよく分からない、そして実体をともなわない感情が彼をゆるゆると蝕んでいった。同じく震えを隠せない右手でライターの火打ち石を叩いた。つかない。もう一度叩くと、先端にに火がともった。
「・・・そろそろ、出て行け。お前はお前の部屋にいなくちゃいけない。」
今までのつぶやくような声ではない。厳しいほどはっきりとした声が、そういった。サカキは立ち上がる。その弾みで、シノはうしろによろめいた。
ヒップポケットに無造作にウイスキーボトルをつっこむと、サカキは玄関口に向かってずかずかと歩いていった。あまりに唐突なその行動をシノはよろめいたその体勢のまま呆けたように見つめるだけだった。
「じゃあな。」
サカキはそう残して去っていった。シノにはその行動が理解できない。玄関にだしてあるサンダルを引っかけるとドアを力一杯開き、去ろうとするサカキの背中に向かって叫んだ。
「なんなのよ!・・・部屋って・・・・出て行かなければならないって!」
サカキは一度、振り返った。鋭い視線がシノを射抜いた。やはりその目には絶望によく似た感情が渦巻いていた。それでも何かを望んでいるようにも、彼には思えて仕方なかった。
「考えろ。部屋とは何か、自分とは何か。・・・そして、俺がいったい何なのか。それだけがお前に出来る唯一のことだ。」
シノは混乱のあまり、頭の中が真っ白になっていた。自らがもはや何を言っているのかもあまり理解できなかった。一瞬だけ、外は雨であることを思い出したが、それは雪よりも白い思考にすぐに飲み込まれてしまっていた。
サカキが、階段を下りる音が聞こえてきた。靴底の硬い靴を好むサカキの足音は硬質で良く響く。シノは思わずドアの前でずるずるとへたり込んでいた。
///////////////////////////////////////////////////////////////////////
マンションの出口まで来ると、サカキの足取りはぴたりと止まってしまった。眼窩の奧が焼けるように熱い。唇が震えて、加えていたハイライトから灰がひとかけら、こぼれ落ちた。
「ほんとうに、出て行かなければならないのは、俺のほうだ」
掠れた声で、彼はきれぎれにそういった。後悔によく似た感情が彼を包み込んでいった。
「依存、か」
サカキは手で顔を覆った。彼は唯一触れていたあの膝を思い出していた。角張っていながら生きることを主張するように熱を発し続ける。そして常に拒絶するような表情をしている目を思い出した。それは、厳冬の凍り付いた湖のようだった。凍り付いた湖は、たしかに表面は凍っているが、中は凍らない。冷たく重い水が春を待ちわびているのだ。
サカキは顔から手をはずした。それをそのままポケットに突っ込むと、雨の中に歩き出していった。肌に突き刺さるように雨が降り注ぎ、すぐに彼は乾いた場所がなくなるぐらいに濡れていった。それでも彼は軒下に避難しようとはしなかった。ただ一足づつ歩いていくだけだった。
雨は、いつ降り止むとも知れず降り続けていた。
作品名:The Fragrance of Rain 作家名:日野 青児