The Fragrance of Rain
タバコの臭気を部屋につけるわけにはいかなかった。だからサカキはベランダへと歩いていった。サッシにつもった砂埃が湿り気を帯びて隅の方で固まっている。窓を開けたとたんに感じたのは濡れた土ー雨の匂いだった。
あまりきれいとも言い難いサッシに腰掛け、しばし泣き出す寸前のような重苦しい空を見上げた。褪色したつっかけが行儀良くサッシの向こうに並んでいた。それをおざなりに履くと、当初の目的だったタバコに火をつけた。
「なあ」
部屋の中にとどまり続ける人間に向かって彼は問いかけた。
「雨って、にわか雨?それとも長く続くのか?」
テレビでは天気予報の画面が流れている。その画面から視線をはずさぬまま、シノは仏頂面に皺を一つ増やした。
「僕に聞くことないじゃない。長く続くと思うんなら、とっとと自分のうちに帰ればいいのよ。」
シノの何かを拒絶するような口調にもかまわず、サカキはただぼんやりとひどいなあ、といった。
言葉を発した弾みで、ベランダに灰を落しそうになる。灰を落そうものなら家主の機嫌は最高潮に落ち込むことは自明だった。彼はあらかじめ持ってきておいたビールの空き缶に灰を落すと、少し猫背になりながらベランダにしゃがみ込む。そしてまた何をするでもなく空を見上げつづけた。
天気予報は雨が降り続く事を告げて終わってしまった。シノは音もなく立ち上がると窓際へと歩いていった。窓枠に手をかけながら、煙たそうに紫煙を追い払う。雨は匂いだけでなく実際降り始めていた。大きな水滴があっという間にコンクリートをまだらに染め抜いていった。
「どうするの。結局、長雨になるみたいだけど?」
「・・・いいさ。別に雨は嫌いじゃない。」
心ここにあらずといった風情のサカキの背中に向かって、シノはひとつ、ため息をついた。部屋の中に戻ると冷蔵庫にしまっておいた飲みさしのミネラルウォーターのボトルをとりだした。数メートル先に止めどなくしたたるあの水滴と、冷蔵庫の中でこじんまりとボトリングされたこの水とで、いったい何の違いがあるだろう、シノはふとそう思った。
そのことをサカキに言えば、多分彼は正論中の正論を返すのに違いなかった。すなわちボトリングされる水はどこか特別な場所で採取されたものだとか、イオンが多く含まれているだとか、そういった類の事だ。しかしシノが聞きたいのはそんな無機質な意味ではなかったから、シノは黙ったまま、青みがかったグラスにその水をそそいだ。
テレビでは、いつの間にか芸能人のゴシップをやっていた。サカキは時々そういったゴシップを楽しそうに見ていることがあったが、シノにはどうしてもそれが楽しいとは思えなかった。かしましい雑音のような番組と化したそれを、容赦なくシノは切った。代わりにお気に入りのCDをかける。それは確かにシノのお気に入りではあったが、サカキには興味のないアーティストのアルバムだった。透明なボーイソプラノがささやくように歌う。本当は透明ではないのかも知れない。しかし、彼は透明であると信じていた。
「なんだ、またこの曲聞いてるのか。」極限まで短く吸い続けたタバコを缶の縁でつぶしながらサカキがいった。口調からすると呆れたような口調だ。
「きみのそれと似たようなものだよ。なんだか麻薬みたいだ、いったん聞きだすと、もう一度聞かずにはいられない。」
シノはサカキの胸ポケットの当たりを差していった。そこには本数が減ってひしゃげたハイライトのソフトケースと明らかに作りの荒い100円ライターが出番を待っているはずだ。
「あ?・・・お前の死ぬほど嫌いな『コレ』と?」
明らかに得心のいっていないサカキはそう聞き返した。
「そんなに僕、『嫌い』って言ってないと思う。僕はお酒もタバコも駄目、というよりそうだね、きみがいうみたいに嫌いだけど、でもお気に入りのこの曲だったら何時間でも聞いていられるよ。」
サカキは、胸ポケットを探ってあたらしい1本を取りだした。加速度的に湿り気を増していく外気に、フィルターも同調して湿っている。それに微かな不快感を覚えながらも、気にしていない風で彼は火をつけた。
火をつけるのに、サカキは100円ライター以外のものを使わない。実は一度だけ銀でメッキされたジッポーを手にしたことがあった。しかし、それは彼が大切にしたい思いとは裏腹に、すぐになくなってしまった。思い入れの強さが、時にそれを喪失に追いやる。銀メッキのジッポーはそんな哀しい事実を彼に与えるために、彼のそばにいたのかも知れなかった。
そんな考えに浸りかかった彼の右頬に、一本のビールの缶が差し出された。それはサカキのお気に入りの銘柄で、からみつくような熱気を孕む外気とは対照的に、きんきんに冷えていた。
サカキが視点をスライドさせると、ますます眉間の皺を増やしたシノの顔に突き当たった。一瞬目が合ったかと思ったが、いたたまれないような気分になり、すぐにサカキは視線をはずしてしまった。
「長居するなら、自分の持ってきたものくらい片付けていって。毎回冷蔵庫を開けるたびに嫌いなものを拝むなんてまっぴらよ。」
「まあ、そういうことを言うなって。俺の代わりだと思えよ。」
「きみの代わり?・・・・それこそまっぴらゴメンだわ。きみみたいな無頼な人間、そうそう思い出したくなんてない。」
なだめるようなサカキの口調とは裏腹に、シノはその拒絶を強めるような口調で言う。それを気にした様子もなく、サカキは懐からウイスキーボトルを取りだした。キャップを開けると、当たりに立ちこめる雨の匂いと混ざって、スコッチの独特の香気があふれ出した。それを直接煽る。喉を焼くようなアルコールの刺激が、サカキには心地よかった。
「・・・きみは、やることがいちいち獣じみてる。」
「お前はちょっと都市的に生きすぎだ。あんまり生々しいものを否定しようとすると、自分もナマモノじゃなくなっちまうぜ?」
サカキの顔はどこか哀しみをたたえたように、微かにゆがんだ。しかしそれ以上の感情表現は表には表れてこなかった。シノは、持ってきていたミネラルウォーターのボトルに直接口を付けて飲み出した。コップにはまだ半ばほど残ったままで。ウイスキーボトルをもう一度煽ると、サカキはちらりとシノの方を見遣り、目を細めるようにした。
「・・・やっぱりきみの気持ちは、よくわからない。それとも、これがミネラルウォーターだからいけないのかしらね。」
シノはつぶやくようにそういった。雨脚はますます酷くなり、話し声をかき消すようだった。もしかすると嵐になるのかも知れない、何となくサカキはそう思い出した。
CDの曲は次の曲に移っていた。CMやドラマですり切れるほど使われている有名な曲だ。バッハの「G線上のアリア」。ボーイソプラノはそれこそ嫌みに聞こえかねないほどの透明さでそれを歌い上げていた。少なくともサカキにはそう聞こえていた。
「コンポのリモコンってないのか?この曲、とばしてくれ。」
たまらずサカキはそういった。シノは先ほどのペットボトルを抱えながら、無言でリモコンを操作し、次のトラックに曲を移した。
あまりきれいとも言い難いサッシに腰掛け、しばし泣き出す寸前のような重苦しい空を見上げた。褪色したつっかけが行儀良くサッシの向こうに並んでいた。それをおざなりに履くと、当初の目的だったタバコに火をつけた。
「なあ」
部屋の中にとどまり続ける人間に向かって彼は問いかけた。
「雨って、にわか雨?それとも長く続くのか?」
テレビでは天気予報の画面が流れている。その画面から視線をはずさぬまま、シノは仏頂面に皺を一つ増やした。
「僕に聞くことないじゃない。長く続くと思うんなら、とっとと自分のうちに帰ればいいのよ。」
シノの何かを拒絶するような口調にもかまわず、サカキはただぼんやりとひどいなあ、といった。
言葉を発した弾みで、ベランダに灰を落しそうになる。灰を落そうものなら家主の機嫌は最高潮に落ち込むことは自明だった。彼はあらかじめ持ってきておいたビールの空き缶に灰を落すと、少し猫背になりながらベランダにしゃがみ込む。そしてまた何をするでもなく空を見上げつづけた。
天気予報は雨が降り続く事を告げて終わってしまった。シノは音もなく立ち上がると窓際へと歩いていった。窓枠に手をかけながら、煙たそうに紫煙を追い払う。雨は匂いだけでなく実際降り始めていた。大きな水滴があっという間にコンクリートをまだらに染め抜いていった。
「どうするの。結局、長雨になるみたいだけど?」
「・・・いいさ。別に雨は嫌いじゃない。」
心ここにあらずといった風情のサカキの背中に向かって、シノはひとつ、ため息をついた。部屋の中に戻ると冷蔵庫にしまっておいた飲みさしのミネラルウォーターのボトルをとりだした。数メートル先に止めどなくしたたるあの水滴と、冷蔵庫の中でこじんまりとボトリングされたこの水とで、いったい何の違いがあるだろう、シノはふとそう思った。
そのことをサカキに言えば、多分彼は正論中の正論を返すのに違いなかった。すなわちボトリングされる水はどこか特別な場所で採取されたものだとか、イオンが多く含まれているだとか、そういった類の事だ。しかしシノが聞きたいのはそんな無機質な意味ではなかったから、シノは黙ったまま、青みがかったグラスにその水をそそいだ。
テレビでは、いつの間にか芸能人のゴシップをやっていた。サカキは時々そういったゴシップを楽しそうに見ていることがあったが、シノにはどうしてもそれが楽しいとは思えなかった。かしましい雑音のような番組と化したそれを、容赦なくシノは切った。代わりにお気に入りのCDをかける。それは確かにシノのお気に入りではあったが、サカキには興味のないアーティストのアルバムだった。透明なボーイソプラノがささやくように歌う。本当は透明ではないのかも知れない。しかし、彼は透明であると信じていた。
「なんだ、またこの曲聞いてるのか。」極限まで短く吸い続けたタバコを缶の縁でつぶしながらサカキがいった。口調からすると呆れたような口調だ。
「きみのそれと似たようなものだよ。なんだか麻薬みたいだ、いったん聞きだすと、もう一度聞かずにはいられない。」
シノはサカキの胸ポケットの当たりを差していった。そこには本数が減ってひしゃげたハイライトのソフトケースと明らかに作りの荒い100円ライターが出番を待っているはずだ。
「あ?・・・お前の死ぬほど嫌いな『コレ』と?」
明らかに得心のいっていないサカキはそう聞き返した。
「そんなに僕、『嫌い』って言ってないと思う。僕はお酒もタバコも駄目、というよりそうだね、きみがいうみたいに嫌いだけど、でもお気に入りのこの曲だったら何時間でも聞いていられるよ。」
サカキは、胸ポケットを探ってあたらしい1本を取りだした。加速度的に湿り気を増していく外気に、フィルターも同調して湿っている。それに微かな不快感を覚えながらも、気にしていない風で彼は火をつけた。
火をつけるのに、サカキは100円ライター以外のものを使わない。実は一度だけ銀でメッキされたジッポーを手にしたことがあった。しかし、それは彼が大切にしたい思いとは裏腹に、すぐになくなってしまった。思い入れの強さが、時にそれを喪失に追いやる。銀メッキのジッポーはそんな哀しい事実を彼に与えるために、彼のそばにいたのかも知れなかった。
そんな考えに浸りかかった彼の右頬に、一本のビールの缶が差し出された。それはサカキのお気に入りの銘柄で、からみつくような熱気を孕む外気とは対照的に、きんきんに冷えていた。
サカキが視点をスライドさせると、ますます眉間の皺を増やしたシノの顔に突き当たった。一瞬目が合ったかと思ったが、いたたまれないような気分になり、すぐにサカキは視線をはずしてしまった。
「長居するなら、自分の持ってきたものくらい片付けていって。毎回冷蔵庫を開けるたびに嫌いなものを拝むなんてまっぴらよ。」
「まあ、そういうことを言うなって。俺の代わりだと思えよ。」
「きみの代わり?・・・・それこそまっぴらゴメンだわ。きみみたいな無頼な人間、そうそう思い出したくなんてない。」
なだめるようなサカキの口調とは裏腹に、シノはその拒絶を強めるような口調で言う。それを気にした様子もなく、サカキは懐からウイスキーボトルを取りだした。キャップを開けると、当たりに立ちこめる雨の匂いと混ざって、スコッチの独特の香気があふれ出した。それを直接煽る。喉を焼くようなアルコールの刺激が、サカキには心地よかった。
「・・・きみは、やることがいちいち獣じみてる。」
「お前はちょっと都市的に生きすぎだ。あんまり生々しいものを否定しようとすると、自分もナマモノじゃなくなっちまうぜ?」
サカキの顔はどこか哀しみをたたえたように、微かにゆがんだ。しかしそれ以上の感情表現は表には表れてこなかった。シノは、持ってきていたミネラルウォーターのボトルに直接口を付けて飲み出した。コップにはまだ半ばほど残ったままで。ウイスキーボトルをもう一度煽ると、サカキはちらりとシノの方を見遣り、目を細めるようにした。
「・・・やっぱりきみの気持ちは、よくわからない。それとも、これがミネラルウォーターだからいけないのかしらね。」
シノはつぶやくようにそういった。雨脚はますます酷くなり、話し声をかき消すようだった。もしかすると嵐になるのかも知れない、何となくサカキはそう思い出した。
CDの曲は次の曲に移っていた。CMやドラマですり切れるほど使われている有名な曲だ。バッハの「G線上のアリア」。ボーイソプラノはそれこそ嫌みに聞こえかねないほどの透明さでそれを歌い上げていた。少なくともサカキにはそう聞こえていた。
「コンポのリモコンってないのか?この曲、とばしてくれ。」
たまらずサカキはそういった。シノは先ほどのペットボトルを抱えながら、無言でリモコンを操作し、次のトラックに曲を移した。
作品名:The Fragrance of Rain 作家名:日野 青児