神様と居候
なんで夏にすき焼きなんだ、と一瞬つっこんだが、すぐに我に返った。慶喜のやつが帰ってきた。しかも顔をあげればすぐにこのベッドが見える。
「あれ、誰か来てるんですか? あんまり大人数は連れ込まないでくださいね…………ってあら」
廊下を半分以上歩いたところで、やっとこちらを向いた。半袖長ジーンズでブレスレットをつけてる男がレジ袋を提げてるのは異様な感じだが、それでも今の俺にとっては救世主だ。いつのまにか実砂も慶喜を見ている。
「あらあ、お帰りケイ君。お邪魔してたよ」
「ええ、それはかまいませんが……。全く広直さん」
「あ?」
そんな怪訝な顔する前に助けてくれ。
「あなたねえ、仮にも人の家でやっていいことと悪いことってのがあるでしょ? しかもまだ三時ですよ?」
……勘違いしてる。こいつは何か勘違いしているぞ!
「ちょっと待てコラ! この状況見て言うのはその台詞か!?」
「それ以外何かあります? んー……。あの、とりあえず私トイレか風呂にでもこもってましょうか?」
「……てっめ…………!」
頭も顔も熱くなって、思わず半泣きしそうになった。神様だったら俺を助けろ!
「ケイ君、あなたもこれほしい?」
状況を理解してない実砂が、開けるのに一苦労していた袋を慶喜に見せた。ふと、やつの目がかすかに細くなった。
「やっぱりですか……。広直さん」
買い物袋を足元に置いて、慶喜は小さく実砂を指した。やつの言いたい事が、なんとなく伝わった気がした。
「すまねえ実砂!」
「えっ……きゃ!」
腐っても男だ。不利な体勢でも、これぐらいはできる。俺はしっかり座り込んでいた実砂を、床の上に落とした。ベッドはさほど高くはないから、尻が少し痛くなるぐらいだろう。
「広直さん、私の家で何かやるときは、事前にお知らせしてくださいよ。私帰る時間調整しますから」
「てめーなあ! いい加減やめろそれは!」
「わかってませんねえ、あなたは。最初から冗談でしたよ」
なんだか嫌なやつ。
「さてと、実砂さん。彼は完全にクスリからは足を洗ったんです。他の人を巻き込むのはやめましょうよ」
まだ座り込んでいる実砂と目線を合わせるように、慶喜は膝をついた。
「や、だ…………。だって周りにあたしと同じ人がいないから、寂しい……」
実砂はうつむいた顔を赤くし、零れ落ちる涙を必死に手の甲でぬぐいながら、慶喜の問いに答えた。
「だったら、あなたが変わればいいんです。あなたが周りの人と同じになればいい。簡単でしょう? 他の人を自分と同じにするよりは」
「ううん……」
実砂は大きく首を横に振った。
「だって、そうするときはすっごく苦しい思いをしなきゃならないんでしょ? やだもんそんなの」
「そうですね。でもこのままクスリを続ければ、いずれあなたの身体はぼろぼろになってしまう。そうしたら、ヒロや私にも会えませんよ?」
あだ名を言われてすこしムカッときたが、それは実砂を少しでも安心させるためのものだと納得させた。
「やめたいよ、あたしも……。でも、怖い……」
「わかります、その気持ち。でも彼は……。ヒロは、自分でやめようとしましたよ?」
「ヒロは勇気があるから……。あたしにはそんなのない。すぐ手を出しちゃいそうで……」
その時、なぜか慶喜は笑った。嘲笑ではなく、苦労して問題を解いた生徒の一部始終を見ていた、優しい先生のような。ゆっくりと実砂の頭をなでると、その手を肩に置く。
「じゃあ、あなたをクスリから助けてあげます。大丈夫、痛みはほとんどありませんから」
……どこかで聞いたような台詞だ。
「広直さん、私これから彼女を助けますが、あなたここにいますか?」
つっ立っていた俺を見上げて、慶喜が口を開いた。
「へ? いちゃだめなのか?」
「そうじゃないですが……。ほら、前言ったでしょ? 吸血鬼みたいだって」
「……ホントなのか?」
「ええ」
泣き疲れたのか、ややぐったりしている実砂の背を、慶喜は抱えた。
「人に見せるものでもないですし、見たいと思うようなものでもありませんからね。すぐ終わるんで、どこか見えないとこにでも」
「…………ああ」
ゆっくりと、だが少しずつ歩調を速めて、俺はキッチンに身を隠した。もし本当なら見て気分がよくなるものではない。だってあれだろ? 詳しいわけじゃないが、吸血鬼って。確か十字架とかにんにくが苦手で……。
…………やっぱり興味がわく。そっとかげから覗いてみた。
「…………!」
ちょうどその時、慶喜の顔が実砂の首筋に埋まった。向こう側なので、慶喜の顔は見えない。実砂の首は後ろに倒れ、眠っているようにも見える。
ただ、それを見ると同時に、あの夜の一番もやがかった記憶が、突然鮮明になった。壁に押さえつけられたときのかすかな首の痛み。首元から聞こえた声。そのあと全身を襲った、小さな痛みと痺れ。いや、その前に鋭い二つの何かが、俺の首に…………
あれ? もしかして鋭い二つの何かって……まさか……
埋まっていた慶喜の顔が、ふと上がった。閉じかけた唇の間から、赤く濡れた“鋭い二つの何か”の片割れが、なぜかはっきり見えた。