神様と居候
「……なんでそんな重大なこと忘れてたんだ? 俺」
「そんな台詞聞くの、僕初めてですよ」
コーヒーカップから口を離し、呆然と呟いた俺を見た男は、頬杖をついたまま窓の外を見ながら、ため息混じりで言った。
「僕と関わったことと、クスリのことをきれいさっぱり、相手から消してきたってのに……。どうして思い出しちゃうんでしょう」
「そうだよ……俺、ずっとあそこで……」
若い今どき男を装ったやつは無視して、俺は記憶を引きずり出していた。
どうして忘れていたんだろう。俺はずっとあそこで、ヤク漬けの日々を送っていたことを。あの快楽を、そしてやめようと決意した日々の苦しみをも。
「あなたが使っていたものは、新種か何かだったんでしょうかねえ。見事に症状が混ざってましたから。あの様子だと、あのときの退薬症状は吐き気とか、ふるえとかじゃありませんでした? そうするとあへんとかヘロインになるんですがね。でも、陶酔感とかしびれとかありませんでした? それだとシンナーとかになるんだけれど」
……なんでこんなに詳しいんだ? こいつ。
「あのさ……何かの専門家?」
「いいえ。専門家ではありません」
ずいぶんと“では”が強調されてたような。笑顔で答えたわりには。
「それで、どうだったんです? あなたの使っていたものは、新種なのかどうかはわかりますか、土戸広直さん?」
「……なんでフルネームなんだよ。しかも名字つき」
一応つっこんだが、質問には答えることにした。息を一つ吐く。
「俺にはわからねえ。大体もらうだけの立場の俺に、クスリの種類まで教えるかよ」
「それはそうですね。もしかしたらってことを考えて聞いてみたんですが、やっぱり知りませんでしたか」
そいつはストローに指を添えて、中身を飲んだ。ちなみにその中身は……オレンジジース。子供か女みたいだ。
肩に触れている黒髪は、ほんの少し茶色には見えるが、俺よりはましだ。俺は染めて茶髪だから。
「ふう……。それじゃあ」
「?」
ぷつりと途中で言葉を切り、立ち上がった男を俺は見上げた。その時には、そいつの指先が、俺の額に当てられている。
状況を理解できていないまま、俺は動けないでいた。長く感じていたが、多分一分も経っていなかったと思う。気づいたときには、そいつは困ったような顔で、どさりと席に戻っていた。
「なんとまた……。これは本当に困った」
こいつ、感情がすぐ顔に出るんだろうか。
「何が困ったんだよ」
「今ね、あなたの記憶の中から、僕とクスリに関する事柄を消そうとしたんだ。だけど、僕はどうやら君にとって強烈な登場の仕方でもしたようだね。クスリについてのことはまだしも、僕に関しての記憶が、完全に彫り込まれている。これじゃあ、君のほかの記憶情報まで傷つけてしまう」
「よくわかんねえけど……」
「君は、他の大事な記憶を道連れにしなきゃ、僕のことを忘れられないってこと……。クスリの記憶だけ消しても、僕のことを思い出すことによって、クスリのことも連想で思い出してしまうかもしれない。そしたら消した意味がなくなるでしょ? はあ、こんなことは初めてだ。さて、どうしたものか……」
とにかく、俺にわかったことは、こいつは今まで、俺みたいなやつにたくさん出会ってきたってことと、例外なく、そいつらのクスリとこの男に関する記憶を、消し去ってきたってことだ。だけどその例外が、今起こっている。
「どうしようかなあ……」
ぶつぶつ言いながら、そいつはいつの間にか勘定を持って、レジに向かっている。
「へ? あ、おい! 俺まだコーヒー代出して……」
出してない、と言ったときには遅かった。さして高い金額でもなかったが、俺は見ず知らずの男に、コーヒー一杯分の金を払ってもらっていた。
「ちょっ、と、待て!」
慌てて捕まえたときには、すでに店の外に出ていた。
「お前、俺の分まで払っただろ!」
「ええ、払いましたけど? だってあまりお金持っていないでしょう?」
それはそうだけど。
「俺はな、たとえ所持金がゼロにほど近くても、自分の分は自分で払う主義通してんだよ! だから払わせろ! 今のコーヒー代」
「…………」
ヤク漬けになってても、良心だけは忘れてない。無理やり五百円玉を握らせようとしたが――
「ちょっと待った。僕いいことを思いつきましたよ」
「は?」
見上げると、そこにはいたずらっぽく笑う顔があった。……こいつ俺より背高かったんだ。少しだけど。
「そのコーヒー代ですよ。僕のことを知っている人が普通にその辺で歩いちゃ、僕少し困ります。あなたが絶対に離さないと誓っても、きっとなにかのはずみで話してしまうでしょう。ああ、あなたのことを信用してないわけじゃありませんよ。だからあなたには、僕の家に住んでもらいます。正確には部屋かな?」
「……? ま、待て。なんで俺がお前んとこに住まなきゃ――」
「理由はありますよ。僕、お金を払ってもらうんでしたら、百五十円なら百五十円、三百十五円なら三百十五円と、きっちり払ってもらわないと気がすまないんですよ。さっきのコーヒー、二百五十円でしたね。そのお金の分、僕の家でバイトってのはどうです? それにあなたの家、家なんて呼べるものじゃないでしょう? もうちょっとまともなところに住んでみたいって、思ったことありません?」
おおいにある。だけど二百五十円分のバイトなんて、すぐ終わるぞ。
「いや、だめだ。そんなバイト、一日で終わっちまうじゃないか」
「僕ね、金銭感覚がおかしいようでして」
とびっきりの嘘を考えついたときのような顔で、そいつは身をかがめた。
「どんなにがんばってもらっても、せいぜい一、二円ぐらいの働き分だとしか思えないんですよ。そしたらたくさんいられるでしょ?」
「……お前さ、俺をお前んちにそんなにおきたいわけ?」
「まさか。ただ、その間は身の安全は完全保障いたしますってことを言ってるんです」
雨風を完全にしのげるんだから、願ってもないチャンスなことはチャンスだが、やはりどこか怪しい。このご時世だ、ここまで優しいやつは逆に危険に見られる。現に、俺は危険と見てる。
「ああ、僕のことならお構いなく。僕、こんなうるさそうな若者のカッコはしてるけど、ホントは全然違うんですよ」
「はあ?」
次に発せられたそいつの言葉を聞いたとき、右手に俺の五百円玉があったことを、俺はしばらく忘れなかった。
「僕の名前は広海慶喜。でもこれは仮の名前。ついでに言うと、僕は神様で、吸血鬼なんです」