マクリールの結婚
切り込むようなその一言に、はらはらしながら主と青年のやり取りを眺めていた三人の側近たちは、慌てて空を眺めたが、目の前の青年が言うような光景は空の何処にも見られない。
如何にしてそれを知ったか。樹上の姫も同じ事を思ったのだろう。一瞬虚をつかれた顔をして、それから改めて地上の男を睨んだ。
昨日まで「軟弱か、さもなくば脳まで筋肉で出来ているのだろう」と嘲笑っていた、貴族という階級にある若者から受けた初めての反撃に、睨む少女の表情からは、先ほどまで確かにあったはずの子供らしからぬ余裕が消えている。
「……何故解る。まだ雲は海の上、そこからでは見えぬはずだ」
低く問われて、青年はくつりと喉を鳴らした。
挑むような表情はそのままに、右手をすいと空中、上に向かって差し伸べる。
「説明するためには、少しこの距離は遠いかと」
「降りろ、と言うか」
「言葉を変えれば」
どこまでも慇懃な青年の台詞に舌打ちをした領主の姫は、暫しの沈黙の後に、いともするすると慣れた様子で木を降り始めた。
それを見た側近たちは、驚きに顔と顔を見合わせる。何しろ己らの主の強情を解くのは、本当に幼い頃よりこの主に仕え、血は繋がってこそ居ないが、共有する時間の多さ故にほぼ兄弟に等しいと思われる関係を構築している己らですら、そう容易なことではないのだ。特に木登りを楽しんでいる真っ最中の主にそれを止めさせることなどは、三人がかりで二、三時間説得してやっと、と言う有様である。
それを出会ってまだ一時間足らずの若者が、いとも簡単に成し遂げてしまったのだ。三人が驚くというより、有り得ないと思ってしまったのも無理はないだろう。
そんな側近たちの心情など知らぬまま地上に降り立つかと思われた領主の姫は、しかし青年に差し伸べられた手が届くか届かないかの位置で一旦その動作を止めた。
少女の紫紺の瞳と、青年の藍の瞳が空中でまっすぐに交錯して、そして。
「……手を?」
「手を借りる前に、聞かねばならぬことがあるぞ」
やり場に困ると、差し出した手を取るよう促した青年に、少女は憮然とした表情で言った。
受けた青年は、やはり笑う。
「なんなりと」
「一度しか言わぬ。よく聞けよ」
頷いた青年を、また暫くじぃと不機嫌な顔で見つめる少女の目は、しかし初めて自分に反撃し、しかも強情を張っている己を木から降ろすと言う、己にとっては他人に対する屈服に等しいことを初めて為した眼前の男に対する、なんとも抑えきれない好奇心に煌いていた。
とてつもなく不愉快である。しかしそれよりも興味が勝る。
そんな色をありありと紫紺の瞳に浮かべながら、少女は低く問うた。
「お前、誰だ?」
問われて、青年は軽く目を見開いた。
少しの沈黙の後に詰めていた呼吸を吐き出し、苦笑いの表情に唇を歪める。
「――……何れ貴女に焼き尽くされるさだめを持つ、男の成り損ないですよ」
「嫌味か、それは」
「まさか」
先の言葉の揚げ足を取ったような返答に顔をしかめ、それでも差し出された手を取って軽やかに地面に降り立った少女の前に、青年はゆっくりと膝を付いた。
改めて、と少女の小さな手指に唇をそっと触れさせながら、言葉を紡ぐ。
「これなるはソラリス島のルグナサド。大海の覇者に永久の忠誠を誓う一族の末、真夏の陽の名を頂く太陽伯ブレイリクの対にして、真冬の月の二つ名を冠する者……と、堅苦しい言い方をすればこうなりますね。名乗ったからには同じ質問をお返ししても良いですか?雷と嵐の姫君。海原のまことの支配者の名を持たれる方」
「知っているのなら聞くな。もったいぶられるのは大嫌いだ」
フン、と小さな掌に施された挨拶の口付けを振り払い、ぞんざいに立て、と跪いている青年に命じながら、少女は己の腰に手を当てて相手を見やった。
「そなたの名誉挽回を認めてやる。だからそのふざけた言葉遣いを改めろ。そんな言葉遣いを妻に対してする男など、婿にする気にはなれないぞ」
「仰せのままに……いやあ、名誉挽回が認められて良かった。男の成りそこないのままでは、君と結婚もできないからね」
「そなた、変わり者よの。ソラリス島の兄弟の片割れが変人だという噂はついぞ聞かないが、やはり噂はあてにはならんな……で、私に決めていいのか?嫁にするなら妹のルミネリアのほうが無難だぞ。私はどうあがいてもルミのような姫にはなれぬからな」
立ち上がり、己を見下ろして穏やかに笑った青年を見上げながら少女が問うと、青年は軽く肩をすくめる。
「生憎無難な嫁が欲しいと望んだことがないもので、そういうことはよく解らないんだ」
「ふぅん……そなた、やはり変わり者だな。父上が何故そなたのような男を我ら一族の次の担い手と指名したか、理解に苦しむ」
「僕にもよく分からないのだけど。御領主様は、どうやら僕を頭の良い切れ者と信じていらっしゃるようだよ。まったく、買い被られたものだ……しかし君は本当、噂に違わないお転婆っぷりだね。まさか木の上からお出迎えをされるとは思わなかったよ。いやはや、まさに度肝を抜かれた」
からからと笑う青年を見上げながら、領主の姫は不機嫌な表情に重ねて、面白くないと言わんばかりに頬を膨らませた。
「減らぬ口だの。だが、気に入った。しかしそなた、父上の前ではそのようなことは言わぬが身の為ぞ。ルミネリアは立派な淑女に育ったというに、姉の私がこんなではろくな婿が望めぬし、亡き母上に申し訳も立たぬと、父上は私のお転婆に大層お心を痛めておいでなのでな」
「そうなのかい?では、僕は御領主に感謝されて然るべきなのかな。それとも、やはり変人だという噂でも立つだろうか」
きょとんと少女を見下ろして青年が問えば、少女は軽く肩をすくめる。
「噂されたところでなんだというのだ。そんな噂話の一つ二つ、お喋り雀どもの話題に上ったとて痛くも痒くもないだろう。それともそなた、意外と人の口が気になる性質なのか?」
「気になる、なんて可愛い事が言えれば良いのだけれど、まったくそんなことはないから困るね。今だって次期領主なんかに指名されてしまったお陰で、相当な噂になってるんだ。それに余計な尾ひれが付いたところで、今更って奴じゃないか」
「……やはり面白いな、そなた。まぁいい、そうと決まれば話は早いぞ。さっさと父上の所に行ってご報告申し上げねば。面倒なことは早めに片付けておくに限る」
くるっと踵を返し、まっすぐ館に向かって歩き出した少女を追って歩き出した青年は、少女の言い草に困ったように微笑みながら、軽く溜息をついた。
「君にとって、僕との結婚は面倒事かい。まぁ気持ちは解らないでもないけどね……とりあえず御領主さまにお目にかかる前に、僕は僕の父上と母上に話をしなけりゃならないのだけど、君、一緒に来る?どうせならいっぺんに片づけてしまった方が良いと思うんだけど、色々」
「む。そうか。ご挨拶申し上げねばならんのは、私の父上だけではなかったな。と、なるとさすがにこの格好はまずいか……アディ、レヴィ、父上のところに行く前に着替えるぞ。着替えは用意してあろうな?」
「は、はい!?」