海へ続く道
正直、生徒との間に距離をとろうとしない教師は苦手だ。ドラマはドラマ、現実は現実。少なくとも僕はそう思う。
「でも、今の中学生と昔の中学生、一緒にされちゃたまりませんよ」
「まあ、君たちはそう思うもんなのかもしれないけどな。俺もそうだったのかなあ」
ちょっと間をおいて、篠田先生は遠くをみるようにそう言った。
篠田先生は、僕たちの学年担任の中で一番年が若い。まだギリギリ二十代、というところらしい。
「悪かったな。これから部活だっていうときに」
「いえ。……今日は、もう帰るので」
「え? だってさっき、音楽室に」
「はい。でも、予定があったの、思い出したんです」
「……そうか。じゃあ、気をつけてな」
もちろん予定があった、なんて嘘。言ったところで、きっと誰にも理解してもらえないだろう。二次性徴。「変化」というのは、今の僕にとっては脅威以外のなんでもない。自然の摂理であることはわかってはいるけど、居心地が悪くて仕方がない。適当なあいさつを返して、僕は音楽室に向かった。
音楽室では、まだ山本さんが弾き語りをしていた。ただ声が綺麗なだけじゃなくて、ピアノを引きながらでもまったくブレがない。尊敬するべきところかもしれない。
「おかえり」
「あ……うん」
邪魔しないようそっと入ったつもりだったのに、山本さんは歌うのをやめてしまった。勿体ない事をしたな、と思った。
「小林くんさ、このあと練習最後まで出る?」
「いや。帰ることにした」
「え、なんで?」
「予定があったの、すっかり忘れてたんだ」
嘘だよ。予定なんてあるわけないじゃないか。そそくさと荷物をカバンに詰め込む。できるだけ早く帰らないと、他の部員とすれ違ってしまうかもしれない。
「山本さん、練習始まるまでここにいる? もし空にするんだったら、鍵よろしく」
「ちょっと待ってよ」
「じゃ、僕はもう行くから」
荷物を全部まとめて腰をあげたその時。
「待ってよッ!」
その細い身体のどこから出ているのだろうというような悲鳴にも近い声をあげて、山本さんは僕の前に立ちはだかった。興奮からか、少し顔が赤い。女子特有の「一人取り残さないで」というのとはまた別の何かを感じたけど、それが何なのかがわからない。
「どうしたの? なんか、変だよ」
「変じゃない。変なのは小林くんのほうだよ。はい、これ」
山本さんの視線がしっかりと僕を捕える。その力強さにあらがえなくて、僕もまたその目を見返す。右手に紙の感触。どうやら手紙らしかった。
「なにこれ」
声が真っ平になって絞り出される。喉に何かがべっとりとはりついたみたいに。
「いいから、これ、読んでね。返事、待ってるから」
なんだか意識を宇宙の彼方へ吹き飛ばされてしまったような気分だった。読まなくても、なんとなく内容は察しがついた。
生まれてはじめての「告白」がこんな形で終わってしまうなんて。家に帰ってベッドに倒れこんでから、ぼんやり薄紫の封筒を眺めながら考えていた。せめて自分から想いを伝えることができればよかったな、とも。別に今好きな人がいるわけじゃないけど、なんとなく。
僕は山本さんと今後どうこうなろうというつもりは全くない。時折彼女がこっそり歌うその声を聴ける、ただそれだけでいい。いわば隠れファン、というやつだ。それ以上でもそれ以下でもない。もしここで僕が彼女の想いを受け止められなかったら、もう彼女の声を聴けなくなってしまうかもしれない。今の関係を壊す覚悟で彼女に接しなければならなくなった。それが残念でたまらない。
「もうお前とはとっくに終わったっつってんだよ、離せようぜえなッ!」
半分だけ開けた窓の外から、女の子の絶叫が聞こえてきた。またしても聞きなじみのある声。昼間の記憶が蘇ってくるようだ。
そっと窓から顔を出して、外の様子をうかがう。隣の家の門の前に、見知らぬ男に腕を掴まれ、必死に抵抗している金髪の少女がいた。
「あやちゃん……?」
小さくつぶやいた声が妙に掠れていてまるで自分の声じゃないみたいで、ほんの一瞬のことなのになんだかとても気持ち悪い。でもそれよりも、穏やかな雰囲気ではない外の様子のほうがずっと気持ちが悪い。
「何してんだ!」
突然上空から飛んできた怒声に、一斉に僕の方へ向けられる二人の視線。あやちゃんが「来るな」と視線で合図を送っているのは伝わってきた。だけど、行かずにはいられなかった。「一人取り残さないで」っていうのとはちょっと違うけど、でも、このまま放っておいたら僕だけが置いていかれてしまうような気がして嫌だ。
階段を疾走して玄関から外へ出る。勢いで口は出しても、さすがに二階から飛び降りる勇気はない。
「彼女、嫌がってるだろ。離してやれよ」
少々息を切らしながら、男につめよる。見たところ高校生からハタチぐらいだろうか。漫画のキャラみたいに赤い髪の色で、眉はほとんどないし、目つきも鋭く尖っている。正直、普通にしてたら絶対に近寄りたくないタイプの人間だ。もしかしたら地元の暴走族とかに入っているヤツなのかもしれない。
「あ? オンナの前だからって何イキがってんだよ。ガキが舐めてんじゃねーぞ」
「そんなの関係ねえよ。その手、離せよ」
「っせんだよ、たかだか中房のくせしてよっ」
左手のこぶしが降ってくる。殴られる――! だけど、それは不発に終わった。あやちゃんが身体が開いた瞬間をねらって男の急所を蹴りあげたのだ。
「助けてなんて頼んでないのに、余計な手間かけさせんなよ!」
そして、僕の手を引いて思いっきり駈け出した。その手に導かれるまま、僕は走った。
十分ほど全力疾走を続け、僕たちは近所の河原へとたどり着いた。そして、どちらともなく土手に倒れこむ。お互い、会話すらできないくらいに息が切れている。無言のままぜえぜえと二人の呼吸の音だけが重なること二、三分。その沈黙の後、
「あやちゃん」
「こばやし」
声をあげたのは二人同時だった。
「うわあ、同時かよ」
まだ若干息切れを残しつつ、あやちゃんは天を仰いだ。
「いいよ、あやちゃんからしゃべって」
「わかった。……お前なあ、なんてことしてくれたんだよ! あそこで邪魔さえ入んなきゃあっさりアイツと縁切れたはずなのに」
後半に連れて表情がなくなっていく彼女の顔を見て、寒気を覚えた。本当に、僕はお節介なことをしたと思う。反省している。だけど、放っておけなかったのもまた事実。勝手な理由だから、許してくれるかはわからないけど。
「……ごめん」
「ま、いーけどさ。アイツ、そこまで根性あるヤツじゃねーし」
ためいき混じりにあやちゃんは僕を見た。攻撃的な言葉づかいに反して、なんと慈愛に満ちた瞳をしていることか。ほら、やっぱりまだ昔のあやちゃんはここにいた。
「んで、そっちの言いたいことは?」
「……うん。ほんとに、さっきはごめん。でも、言い訳も聞いてほしくって」
「……バカ言うんじゃねえよ。なんでそんな情けねーもん用意してあんだよ」
「ごめん。……でも、なんか、あやちゃんを助けたくて仕方なかったんだ」
「助けてどうなんの」
「わかんない。もう少し、僕の近くにいてくれるのかな、なんて思っただけかも」
「『僕の近くに』?」