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シンク・レイル#1 雪に散る

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 当たり前に訪れる夜。暗い廊下。
 ロザリンドは、シエラの手に引かれて歩く、長く豪奢な絨毯の敷かれた廊下に満ちる静謐が恐ろしくてたまらなかった。
 シエラの話では、すでに街には火が放たれているとのことだった。ロザリンドの部屋の窓は街の外側に面しており、雪と暗闇の中に狂気の赤が灯る様を目の当たりにすることはなかった。

 ――もし、シエラが来てくれなかったら。それを思うだけで、ロザリンドは身震いが止まらなくなる。

 街の夜は蹂躙され、崩壊してしまった。しかし、自分が見ている世界は自分の心情ばかりを除けば尋常のものに同じで、何一つ変化していない。屋敷の外で溢れる悪夢が嘘のようだ。
 何も知覚できないまま、この恐ろしい夜を過ごしていたならば、ロザリンドの運命は街を焼く火に呑まれて消し炭になっていたかもしれない。
 それほどまでに日常とは恐ろしいものだ。今、見えている夜が慣れたものであっても、それは少なからず非日常のにおいを孕んでいる。においを嗅ぎわけられなければ、何も知覚できないまま死ぬ。その危険がロザリンドにはあった。
 だから、牙をむく機会を窺っているように黙っている闇が恐ろしくてたまらない。シエラの手のぬくもりがなければ、わけもわからず叫びだしていたに違いなかった。

「お嬢様、こちらです」

 シエラがロザリンドを伴ってやってきたのは、客室のうちのひとつだった。シエラが扉の前に立ち、今度は努めて冷静に扉を叩く。数秒後に聞きなれた声で「入りなさい」と帰ってきた。

「失礼します」

 そう言って部屋に入っていくシエラに習い、ロザリンドが続く。部屋の中では暖炉の炎が勢い良く爆ぜ、赤身のさしたふたつのシルエットが扉のほうに向かって伸びてきている。

「……来たか」

 ルードフェルドはロザリンドを見るなり、ひどく悲しそうにそう言った。
 ロザリンドは義父の声音にだれよりも強い悲愴を感じ取り、先頃の恐怖も相まって涙が出てきてしまいそうになるが、耐えた。

「おとうさま。話はシエラから聞きました。街が――」

「私たちの街が、そう。燃えているのだ。ロザリンド」

 ルードフェルドは手を組みかえ、ロザリンドから視線を外して再びその上に顎を乗せた。視線の先には、向かい側で何もかも諦めた様子でうなだれているブラッシモンのほうを向いていたが、ルードフェルドは彼を見ているわけではないようだ。

「言いたいこともやりたいことも、万の言葉と時間を尽くしても語り終えないであろうほどに残されている。しかしながら、我々には時間があまり残されていない」

 それはわかっているな、と言いたげに周りを見回すルードフェルド。頷いたのは扉のそばで控えているシエラだけであった。

「このような事態になたのは遺憾だ。無念で仕方がない。おそらく、私の力が至らなかった結果だ」

「そんなこと!」

「聞きなさい。ロザリンド」

 義父の言葉に声を荒げたロザリンドを制し、ルードフェルドは深いため息を吐く。

「私にはなぜこんなことになってしまったのかわからない。しかし、一領地の主とはそういうものなのだ。すべての領民を預かる身として、この事態から目を背けることは許されぬ。責め負わねばならぬのだ」

 そう言い、重苦しい吐息を洩らす。沈痛な空気が肌に食い込んでくるようで、ロザリンドは吐き気さえ覚えた。

 ――自分はいったい何から逃げたいのだろう。もう、ロザリンドには義父の顔さえ直視することができない。

「……だが、責めを負うのは私だけで充分だ。シエラ・リー」

「はっ」

 ルードフェルドの呼びかけに、シエラが短い返事と礼で答える。ロザリンドは見てしまった。シエラの顔が、悔しさに歪んでいる様を。

「ヨハンを裏の厩に待たせている。……あとは頼む」

「……はっ」

 ロザリンドにとって、それは一瞬の出来事だった。シエラが背後から疾風のように素早く、彼女の腕を取ったのである。
 痛いほど強く握られ、ロザリンドは思わず悲鳴をあげそうになったが、絞り出されるはずだった声は、振り返ったシエラの鬼気迫る表情に呑みこまれ、消えてしまった。

「わかってくれ」

 ルードフェルドの声に、ロザリンドは身が凍る思いをした。そんなにも弱々しく、冷たい慈愛に満ちた声を、聞いたことがなかったからだ。

「おまえは優しすぎる。心が美し過ぎるのだ。これから私やおまえに待ちうけていることを、何も知らない。それらをすべて知らせるには、時間が足りなかった」

 ルードフェルドの視線はまっすぐ揺らぐ炎を貫いている。ロザリンドは義父の中で渦巻く激しい無念と悔やみの断片しか見とることができない。それがどんな色をしていて、いったいどれだけ彼が苦しんでいるのか。想像だにもできない。想像することさえおこがましい。ロザリンドは〝まだ〟、その苦しみを知るに至らないのである。

「行け。頼む。振り返らせるな。生きて生きて、その目ですべてを見知るまで、その命を尽かさないでやってくれ」

「御意のままに」

 シエラはロザリンドの腕を取ったまま、深く深く頭を垂れた。それを合図に、ようやくロザリンドの時が動き出す。

「おとうさま……?」

「一緒にはいけない」

 ルードフェルドはロザリンドを視線に入れず、かすれた声で言う。

「運命がそうさせぬのだ。この愚かな男を叔父と―― 父と思ってくれるのならば、私が無様な躯を晒して、おまえを守れなくなる前に行け。生きろ。泥を啜ってでも生きなさい」

 赤い炎は、青い影を作り出す。青い死の影はだんだんとルードフェルドを覆い始めた。

「せめて、男親が必要にならない時まで一緒に居てやりたかった。できれば、兄上から託された小さな小鳥が、空に羽ばたく様をこの目におさめておきたかった」

 それ以上、聞きたくはない。ロザリンドの心が金切り声をあげた。
 そして―― そして。決定的な別れの言葉が、

「私はすべての言葉を尽くしてもおまえへの愛を語ることはできない。もはやこの腕でおまえを守ってやることもできない。――自分で生きろ。私の子よ」


 ――腕が強く、引かれた。


 ロザリンドは振り返る間もなく、後ろに引きずられた。シエラが思い切り腕を引いたのだ。

「おとうさま!」

 ロザリンドはねじれた腕の痛みに耐えながら、必死にそう叫んだ。ルードフェルドは応えない。ただ黙って暖炉の炎の紅い影の舌に舐められている。

「おとうさま!」

 それ以上の言葉が出てこなかったから、ロザリンドは叫び続けた。しかし、帰ってくるのは悲痛な沈黙ばかりである。そのうちに、シエラがドアを開け放った。
 最後にルードフェルドが何かを言ったように聞こえたが、それはロザリンドの耳には届かない。あっという間に、彼女は廊下の薄闇の中に連れ去られてしまった。

「……良かったのですか。最後の別れを、もっと」

「言わんとしていることはわかりますが」

 うなだれたままだったブラッシモンが色のない声で語りかければ、ルードフェルドはようやくといった面持ちで応えた。その双眸はぎらぎらとしていて、どうかすれば野心を胸にした者のようにも思える。

「あれ以上の触れ合いは、決意を鈍らせる」