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シンク・レイル#1 雪に散る

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 ウイスキーの注がれたグラス。アイスロックがカラリと鳴る音は、緊張感の爆ぜる音に良く似ていた。

「……いったいどういうことなんだ!」

 暖炉の炎に煌々と照らされた客室で叫んだのは、脂ぎった男。ノースペテルの豪商にして官僚であるグリーゴリー・ブラッシモンだった。
 ブラッシモンは今宵、個人的な付き合いとしてこの領事館を訪れ、酒を酌み交わしながら会話を楽しんでいた。夜が更け、いよいよ酒が舌を痺れさせてきた、というときに突然駆けこんできた下士官による『国境の門が破られた』という報告が、彼のとめどなく吹き出す汗の原因である。

「ペイランドが今更こちらの領土を侵すなどと、そんな馬鹿げた話が――」

「ブラッシモン殿。落ち着きなさい」

 喚き散らすブラッシモンに冷静な言葉をかけるのは、痩身の紳士。ルードフェルド・ハオラ・コーラレルその人だ。

「どんな理由があるにせよ、我々が置かれている状況は変わりますまい。現にこうして門は破られ、街の至る所で火付けが始まっている。我々が今すべきことは、経緯をあれこれ話すことではないことくらい、わかっていらっしゃるはず」

「しかし」

 ブラッシモンはとっさに何か反抗しようと言葉を探したが、結局ルードフェルドの猛禽類のように鋭い視線が喉に詰まって、勢いのある言葉を吐きだすことができなかった。

「しかし、それなら、そう。いったい我らはどうすれば……」

 しりすぼみにかすれていく声。怒りと混乱で赤く腫れあがっていた顔が見る見るうちに青ざめていく。ブラッシモンは放心してもとのように着席した。

「……ヨハン」

「……はい、旦那様」

 ルードフェルドはうなだれるブラッシモンを一瞥すると、背後で静かに―― と言うよりも、あまりの恐ろしさにほとんど口が聞けないくらいに縮みあがっていた―― 控えている執事、ヨハン・ヴェリヌエスを呼んだ。
 ヨハンは執事や秘書の役割のほかに、ルードフェルドの財政相談役という役目を担う才人である。だが、筋金入りの臆病者であるのが問題だ。
 今も視線はどこか定まらず、唇は十分に暖かい室内だというのに紫色に変色している。心なしか白髪や皺も増えたように見えるのだから、ヨハンの怖がりようは視ていて憐れになるほどであった。
 ルードフェルドが顔色の悪いヨハンに囁くように何事かを告げる。ヨハンは目をぎょろぎょろとトカゲのように動かしながら、時折こくこくと卑屈に頷き、やがて「かしこまりました」と深い礼をし、部屋を出ていった。
 ブラッシモンはヨハンが礼の途中、恐怖に見開いた瞳を虚ろにさ迷わせていたのを目の当たりにし、余計に足元が崩れ去っていくような思いがした。

「もうおしまいだ…… 何もかも。私がこの地で築き上げてきたものが―― 野蛮な鉄騎士どもに蹂躙されてしまう」

 組んだ手に顎を置き、ブラッシモンの泣きごとを静かに聞いていたルードフェルドは、不思議に自分が落ち着いていられる理由を探していた。
 私とて人の子だ。権力を持ち、人の上に立ったとしても神になったわけではない。ただ人々の代弁者になっただけに過ぎないのだ。――常々自分に言い聞かせてきたことを思い返す。人間の子である以上、ブラッシモンのように自分のすべてを脅かす存在に恐れ取り乱してもよいのではなかろうか。

(いや…… そうか。私は)

 そもそもこのようなことが起こることを、ずっと以前から恐怖し続けているのではないか。その恐怖を日常のものとして取り込み、生きてきたからこそ悠長にこのような問答をしているのではないか。

 ――いや、その焦りは近年加速度的に募っていた。他の領主たちよりは遅くとも、着実に崩れていく足場。自分が奈落に堕ちるのはもはや決まりきったことだ。ならば、堕ちる前になにをせねばなるまいか。

(あの子は賢い。私の醜態に気付いているだろう)

 最愛の娘を、自分が追い落とされる前にどうにかしてやりたい。ただ、ルードフェルドは親としては未熟であったのだ。
 娘になにをしてやればよかったのかわからない。強引に婿を取らせることが彼女のためになるかどうかなど、よく考えてみればすぐに答えが出ることであった。

 それがルードフェルドの抱えてきた『焦り』なのだとすれば、なるほどこの状況ですこぶる落ち着いていられる訳がわかる。

(今、何をしてやれるか)

 ルードフェルドは静かに息を吐き、目を閉じる。
 皮肉にも、彼が領主になって以来募り続けてきた焦りは、最悪の結末を迎えようとしている今この時、決着を見たのだった。


◆◇◆