シンク・レイル#1 雪に散る
雪の中で自分が生きていることを確認したアドルフは、死に物狂いで這い出して立ち上がり、走り始める。体の痛みには構っていられなかった。男の「逃げろ」という言葉が脳の中で回転している。
――逃げろ、逃げろ、逃げろ!
ひたすら命じ、走る。
どこへ? 遠くへ。とにかく誰の気配も感じない場所に逃げ込もう。そればかりを考えて走った。
背後の門。国境を三十年以上守り続けている門は、静かに突破されようとしていた。多数の足音が雪を踏みしめる音がアドルフを追う。さながら闇そのものに追われるようだった。
……彼はのちの歴史で語る。
このとき幾度となく足がもつれ、転びそうになってもひたすらに走っている自分を、横から見つめるもう一人の自分が居た、と。
そしてそいつは掴まって楽になれ、と囁いたという。その悪夢のような誘いを跳ねのけ続け、無様に逃げたからこそ彼の運命はのちに紡がれる歴史に関わったのだ。
ただこの時、青年は知らなかった。
自分や、もっと多くの人間を巻き込んで展開する血の歴史の幕あけが、今この時であると。まさに知る由もなかったのである。
この瞬間、死に物狂いで生きるために。何もかも捨てて。
夜の街を切り裂き、石を蹴り、アドルフはどこまでも駆けた。
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作品名:シンク・レイル#1 雪に散る 作家名:幽明鏡華