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シンク・レイル#1 雪に散る

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# 雪に散る


 ――雪が降っていた。その年一番の、綿のような優しい雪だ。
 ノースペテル。国の領土の最北端に位置するこの街では、雪はそう珍しいものではない。ただ、その年は例年より降雪のタイミングが遅れていた。

 街の北側。吹雪に閉ざされた大国ペイランド領土との境界線に、アドルフ・メンデルスは立っていた。
 その年の秋に境界の門の守衛に就いたばかりの彼は、雪の降る夜がこんなにも冷たく恐ろしいものとは思わなかった。
 門の目先、ペイランドの領土へとつながる谷間の細い道は、雪雲のもたらす闇にまみれて見えない。すぐそばで燃えている灯りも、その濃厚な闇を切り裂くことはできず、ただ空から落ちる雪をわずかに焦がすばかりに留まっている。

「おい、ぼうず。寒かったら戻ってきていいぞ」

「もう時間は過ぎたんだ。今日はもう、来やしないさ」

 石造りの門の中に作られた詰所の中から、年配の衛兵たちが声をあげた。アドルフはきちんとそれを聞き分けたが、聞こえないふりをして闇に沈む隣国への道を見つめる。
 ――ペイランドは特定の資源に貧しい国だ。今宵もまた、寒さをしのぐ燃料の取引にと、貿易相がここを通るはずだった。少なくとも、アドルフはそういう連絡を受けている。だが、痩せた馬の引く馬車は一向に現れない。そのうちとうとう、雪まで降りだしてしまった。
 アドルフは降りしきる雪の中、痩せ馬の引く馬車が谷間の道の半ばで立ち往生している様をまざまざ思い浮かべた。
 青白い、生気の失われた顔色の老人が手綱を握ったまま微動だにせず、ただ雪の彫像のように暗闇に縫い付けられている。
 馬もじきに斃れるだろう。白く濁っていた息は段々と細く薄まっていき、最後には――

「おおい、寒かろうよ。わけえのが身体冷やすのは良くねえ。筋肉が強張っちまうぞ」

 アドルフが返事をしないので、ずんぐりむっくりとした中年の衛兵が扉を開けて出てきた。ぼーっと一点を見つめたままのアドルフの方を強く叩くと、自分の方へと振り向かせる。

「そんなに心配かよ。あの痩せた爺さんが?」

「ああ、途中の道でくたばってたりしてないかと思って」

 アドルフは口の聞き方を知らない男だった。しかし、それが返って年配のものへの好感へと繋がっている。
 アドルフと二倍ほど年が離れている男は豪快に笑った。

「面白いやつだなおまえ。普通は他の国のヤツのことなんか心配しねえよ」

「でも、爺さんだ。老人はいたわるもんだ、っておやっさんはおれに何回も言ったよ」

 アドルフはもともとみなしごで、大工の男に引きとられて七年が経つ。気風のいい男に育てられたせいか、やたらと情の厚い性格になってしまったアドルフは、他国の名も知らぬ貿易商の老人が、きちんとものを食べてるかどうかまで気にする始末である。

「ったく、オヤジの話はもういいよ。そんなに心配ならオレが立っててやるから、おまえはちょっと休め。もうふたときは立ちっぱなしだろうが。風邪引くぞ」

「……わかったよ」

 肩をすくめ、答える。男はにやりと笑ってもう一度アドルフの肩を叩くと、早く行けと促す。その強烈な衝撃に舌打しつつ、

「そっちも若くないんだから、気をつけろよ。おっさん」

「うっせえ。ぼうずは黙ってすっ込んでろ」

 最後に憎まれ口をたたき合い、アドルフは詰所の中に入り込んで扉を閉めた。吹き込む風の音が弱まり、柔らかな火の暖かみが冷え切った肌を包み込む。

「おう、戻ったか。酒でもやるか? 温まるぞ」

「いい。やめとく」

 詰め所に居た二人は、酔っていた。酒の瓶はすでに二本が空になっている。
 ……今日は随分とハイペースだ。
 アドルフは酒の席を断ると、暖炉に近い椅子に腰をおろして、酔いどれ二人のチェスの試合観戦に興じる。
 実につまらない試合だ。両者酔った思考力で繰り出される一手に無駄が多く、盤上はぐちゃぐちゃにかき回されていく。これでは赤ん坊がわけもわからず駒で〝ままごと〟をしているみたいだな、とアドルフは思った。

 雪の夜はゆったりと更けていく。酔いどれ二人はいつの間にか眠りこけ、盤上の駒が床にぶちまけられた。そのやかましい音にぼんやりとしたまどろみを取り払われてしまったアドルフは、緩慢な動きで立ちあがる。
 勢いの弱まっている暖炉に薪を放りこみ、縮こまった背骨を伸ばす。
 ――そろそろ交代しようか。
 酔いつぶれた二人は役に立たない。そう思って外に出て行こうとしたときだった。

「――――ッ!?」

 突然轟音が響き、火が揺らめく。
 一瞬何事かと頭が真っ白になるが、すぐにそれが門の開く音だと気付いた。
 おそらく貿易商が現れたのだ。今歩哨に立っている男が、守衛に渡される特殊な鍵を使って外側から門を開けたのだろう。そう思った。
(どれ、どんな様子か見てみるか)
 アドルフはすっかり冷静さを取り戻すと、詰所の中にある見張り塔へ登る階段を上がろうとした。そこからなら門の下の様子が良く見える――
 階段を一歩上がろうとし、しかし扉が開く音に振りかえった。暖かい空気が寒い戸外に根こそぎ吸い取られていくようだった。
 その空気の渦の中心に、歩哨に立っていたはずの中年男が立っていた。

「逃げろ、今すぐにだ。上に! 早く!」

 言われた時はわけがわからなかった。アドルフは左足を階段にかけたまま、呆然と戸外の闇に紛れた男を見る。
 男は苦しそうに背中を丸めていた。顔は良く見えないが、苦悶の表情を浮かべているようにも見える。そして右肩。だらんと下げられた二の腕は血に濡れていた。
 アドルフは息を呑む。
 矢だ。矢が刺さっている! 男の右肩に矢が!
 それを目の当たりにし、認識した瞬間、アドルフは弾かれたかのように階段を駆け上がり始めた。自分でもわけがわからなかった。ただ、走らねば自分もあんな目に遭うのではないかと思った。
 見張り塔の上に出た時、下の階で誰のものかもわからぬ叫び声が上がった。アドルフはそれに気を払う間もなく、狭い見張り塔の上を走りまわった。

 ――どこかに身を隠す場所は? 逃げる場所は?

 暗闇に満たされた屋外で、アドルフは尋常ではない身体の震えに襲われつつ、時間の遅れと自らの能がフルスピードで回転しているのを感じ取る。
 どうすればいい。このまま留まれば死ぬ。そんな気がしてならない。
 歯を食いしばり、口の端から白い息を溢れださせ、アドルフは探した。
 背後の階段から、複数人の足音が聞こえる。マズい。それから先は、もはや彼の思考スピードが及ぶところではなかった。
 アドルフはわけもわからないまま勢いをつけ、暗闇に身を放った。
 高さがどのくらいだとか、そんなことにはかまっていられ考えが回らなかった。ただその場から逃げたかった。
 一時の浮遊感の後、衝撃。アドルフにとって幸運だったのは、見張り塔がそれほどの高さでなかったことと、雪が降っていたことだ。降り積もったばかりで固まっていなかった雪は、幾分か落下の衝撃を和らげてくれた。