2月 涙虫
その日の帰り、翠はなんだかんだと考えて出せずにいた連休願いをとうとう上司に提出した。いつもなら理由をしつこく聞いてくる上司も、独りぼっちの寂しい家に帰るのがしんどくて今までと打って変わって連日残業ばかりしている翠の様子に気付いていたのか、それとも誰かから子どもが取られたなどと噂に聞いていたのか、珍しくなにも言わずに了承してくれた。翠は伸びきった髪を気にしながら人気のまばらな夜道を、誰も待っている筈もない家にとぼとぼ歩いた。明日、髪を切りに行こうと思いながら携帯を取り出した。着信もメールも来ていない待ち受けを1分程睨み鞄に放る。まるで会社が終わってからの仕事のように何十回となくそれを繰り返す。
そして、今日もなにも連絡がなかった。
「あーちゃん。おばーちゃんが小学校まで送ってくわよおー」
祖母がご機嫌な笑顔でハムエッグにサラダとみそ汁にご飯の朝ご飯を食べている旭に話しかけてきた。翠と住んでいた時の朝ご飯は大体トーストに牛乳。良くて目玉焼きがつくくらいだったので、朝から品数が多いのには何だかまだ慣れないし、送り迎えつきの通学にも慣れない。ここから学校に通うようになってから毎日のように祖母が送り迎えしてくれる。
「・・・いいよ。近いんだし。歩いて行けるから」
「そんなつれない事言わないで。おばーちゃん悲しくなっちゃうわ」演技地味たようにわざと悲しげな顔をする祖母。
「・・・わかったよ」
「じゃあ朝ご飯食べ終わったら、車に乗って待っててね」
「へーへー」
同級生が歩いている通学路を1人だけ車に乗って通学するなんて、ハッキリ言ってすごく恥ずかしいと旭は思っていた。だけど、仕方ない。拠り所がない自分を一生懸命世話をしてくれるおばぁちゃんを悲しませるわけにはいかないのだと言い聞かせて我慢する。親父は以前よりも頻繁に帰ってきていた。もしかしたら女と切れたのかもしれない。母さんに教えてやらなきゃ。そこまで考えて思いとどまる。電話もかけてこない、ろくに心配もしないで怒ってばかりいるような母さんなんてどうでもいいんだ。いくら寂しくてもいて欲しい時にいてもくれなかった母さんなんて・・・
「今夜は父さん何時に帰ってくんの?」
和やかに降り注ぐ冬の日差しに目を細めて、窓の外を眺めながら何気なく祖母に聞いてみた。
「さあーねぇ。どうかしら。最近向こうの子に嫌われてるとかで色々気を使ってるみたいよー」
「へぇ。向こうにも子どもいるの? 幾つくらいの?」
「あら。知ってる筈よ。あーちゃんと仲良しだった可愛い女の子いたじゃないの。年上でお父さんが脳出血で亡くなったとかっていう。なんて言う名前だったかしら?」
そこまで聞いて旭の頭は急に激しく脈打ち始めた。まさか・・・「・・・ほ、たる?」
「あー そうそう。そんな名前だったけね。蛍ちゃん。中学生か高校生かくらいだったかしらね、やっぱ女の子は難しいわよ。だのにいくら言ってもあの子は聞かないんだから。まったくねぇ」
祖母は深いため息をついた。後部座席で旭は気も狂わんばかりの戸惑いと怒りが体を駆け巡るのがわかった。知らなかったのは、俺だけかよ。確かに最近蛍とは会ってない。というか会えなくなっている。それが原因だったなんて考えてもみなかった。
そして、その夜遅く、堂々と帰ってきた浜崎を旭は玄関で迎え撃った。
「まだ起きてたのか。明日も学校だろ。もう寝た方がいいぞ」
「ーーーっせーよ」
「え、なに? 聞こえない。ごめん。俺ちょっと疲れてるから何か話たかったら明日にしてくれ」
浜崎が屈み込んで靴を脱ぎながら言ったその瞬間、旭は顔色の悪い痩せ気味の男の横っ面を有りっ丈の力を込めて思いっきりぶん殴った。子どもとはいえ健康な11歳の男の子の拳は精神安定剤漬けでガリガリのだらしない男には充分効いた。
「クソやろーがっ!てめーなにやってんだよっ!相手の女って蛍の母ちゃんなんだってなあーー?」
浜崎は玄関の敷居の所にへばり込んで死んだ魚のような目を更に白黒させて唖然としたまま、激怒して怒鳴る旭を目を逸らしたくなる程の情けない顔で見上げている。こいつと血が繋がっているなんて思いたくもない。
「え、お前、知らなかったのか? そうだよ。蛍ちゃんのお母さんだよ。お前と仲良かったんだからいいだろ。本当の姉弟になれるんだぜ」ヘラヘラとそんな事を調子良く口走る父親に殺意すら湧いてしまったのは事実だった。
「なりたかねーよっ!誰がそんな事頼んだよっ!糞親父、最低だなっ!もう死ねよっ!俺は母さんのとこに帰るからなっ!」
「お前のお母さんはもういないかもしれないよ。俺がお前を引き取るって電話した時に引っ越すって言ってたから」
あとはリサイクル屋に持ってって、買い取れないって言われたらゴミに捨てよう。ようやくまとまった段ボールの山を見上げて翠はほっと息をついた。旭の机や持って行けなかったものを向こうに送ってあげようかと思ったが、新しいのを買うからといらないと義母に断られたので仕方なくリサイクル屋持ち込み用の段ボールに分けた。
けれど、旭がおこずかいとお年玉を叩いて集めた電車のコレクションだけは、又別の段ボールに詰めた。せめてこれだけでも送ってあげよう。がらんどうになった部屋の硝子越しに梅の蕾が薄紅色にほんのりと色付き始めていた。毎年眺めてきた梅だ。今年からもう見られないと思うと旅立ちの気持ちが挫けてしまいそうだった。一緒に眺める相手がいないんだから仕方ないんだと無理矢理にでも言い聞かせるものの、梅の蕾はただそこにあって、まるで翠を見守っているかのようだった。強引に視線を外すと、かなりすっきりと片付いてしまった空っぽの部屋で、すっきりと短く切ったショートカットの頭でカップラーメンを作る。あれから神戸に下見に行き、友達のつてで良い物件を押さえられたので会社には今月いっぱいで辞めますと言って退職願いを出してきた。急な事に上司は困った顔をしていたが仕方ないと許してくれた。そして、今月もあと3日。
味もそっけもないような夕飯を済ませてキャスターに火を点ける。明日はリサイクル屋巡りだ。翠はぼんやりと天井を見上げた。古びてヤニ色に染まった不可思議な模様が浮かぶ木目の天井。1年かかってようやく離婚して旭と初めてこの平屋に越してきた時も生活用品がまだ揃っていなくてテレビもなかったから、よくこうして天井の木目を親子2人で眺めてはなにに見えるか考えたりして暇を潰していた。まさかその2年後に一人で見上げる事になるなんて想像もつかなかったな。なんだか滑稽に思えてきて翠は一人で声を出して笑った。又しても眼球を透明な羽虫が幾匹かチラつき始めた。やれやれ。これはきっと涙の虫だろうな。泣けない翠の代わりに飛び交う涙のような虫。涙虫。
その時、玄関の扉を激しく叩く音が聞こえてきた。もしかしてと不安に身を竦ませて翠は覗き穴から外を見た。やはり旭だった。少し伸び始めた猫っ毛の前髪の下に怒ったような表情をして、休む事なく壊すような勢いで古い木の扉を叩き続けている。浜崎が引っ越しの事を話したのだと即座にわかった。
「母さんっ!開けてよっ!どっか行っちゃうって本当かよっ!俺を置いて行くのかよ」