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2月 涙虫

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「そんなの何処の母親もそうだよ。旭君はまだ子どもなんだし、いちいち言う事を真に受けないの。あんたが一人親になったからって言う責任感じるのは悪くないけど、子どもには母親が必要だよ」
 当たり前のように励ましてくれて庇ってくれる親友の声に鼻の奥がつんと痛くなりそうだった。
「・・・うん」
「とにかく落ち込んでなんかいないで、すぐに旭君を迎えに行きなよ」
「・・・でも、旭は帰りたがらないと思う」絶対に。拒否られたら増々落ち込んでしまうのが怖かった。
「なに言ってんの。あんたの子どもでしょ」
「そうなんだけど。旭のしたいようにさせるのもいいかな、と」
「放任過ぎるのも良くないんだよ。子どもは子どもで考えられるかもしれないけど、間違った事を正すのは親の役目なんだから。母親であるあんたの了解も得ないで勝手に旦那の実家に行ったらダメでしょ」
 確かに正論かもしれない。けれど、それ以前に翠には引け目に感じてしまう事がたくさんあった。だから強くは出れない。
「・・・でもあたし、旭を怒って叩いたりしちゃうし」
「殺すくらいに?」
「そこまでじゃないけど、でも今ってちょっと叩いたりするだけで虐待とか言うじゃない?」
「男の子なんだから、多少は大丈夫よ。今に力が強くなって敵わなくなるんだから。なあーにぃー? もしかしてそれを気にしてるのー?」図星を突かれた。流石は高校時代から伊達に長く付き合っていない。けれど、翠は敢えて肯定はしなかった。
「それもあるけど・・・疲れたってのもある」
 すると、少しの沈黙のあとで受話器の向こうの友達は言った。
「そっか。なら、いっその事引っ越しちゃえば? もし万が一旭君が向こうに行ってもこっちに来ても大丈夫なように少し広めの部屋借りてさ。ちょうど私も地元から神戸に引っ越してきたばっかりなんだよ。良いとこだよぉ神戸は。あんたもこっち来なよっ!あんたも来たら、きっと楽しくなるし」
「神戸かぁーー・・・いいなぁ」
「でしょう? じゃあ、あと1週間経っても旭君が帰ってこなかったら、休み取ってこっちに下見に来な。わかった? 約束ね。休みの日程決まったらメールしてっ」
 捲し立てるようにそう言って、一方的に電話は切れた。せっかちなのも相変わらずだ。翠はしかし先行きの明るい話に鬱々した気持ちが晴れてきたのがわかった。そうか。それもいいかも。明日辺りに会社に休み届けを出してみようと思うと、自然足取りも軽くなった。
 家に帰ると、旭が帰ってきていた。予想していなくもなかっただけに嬉しさ半分、驚き半分だったが、翠が普通にお帰りと言っても何も答えなかった。どうやらまだ怒りは溶けていないらしい。そんな状態で帰ってくるのはあまり良い兆候じゃない。
「旭、何してるの?」
 おでんを食べつつ凝視されているのがわかっているくせに意固地に無視し続けながら、ひたすら自分の部屋の中をガサガサかき回して、大きな鞄に色々と詰め込んでいる旭に翠は臆する事なく普段通りに声をかけた。
「荷物まとめてんだよ。見りゃわかんだろ」
「・・・出てくの?」
 それには何も答えずに旭は黙々と荷物を詰め続けた。この間までくだらない冗談を言って一緒にご飯を食べたりしていたのに、大切な自分の子どもなのに今は手を伸ばしても触れられないくらいに遠く感じる。こんなに目の前にいるのに。翠はキャスターを吸いながら、諦めが張り付いた目に祖父と祖母に甘やかされているのだろう肉付きの良くなった旭の様子を映し続けた。浜崎にはちっとも似ていない整った顔立ちに丁度良い肉付きでせっかく格好良かったのに台無しだ。
「何だったら、残ったものはあとで、段ボールで送ってあげる」
 そう提案した翠の言葉をまたしても無視して、旭は必要な物をまとめるとさっさと扉を閉めて出て行った。机の上にはいつかの塗装の剥げた古ぼけた電車が寂し気に残されていた。持っていかなかったんだ・・・
 いつか翠が仕事から帰ると、旭が行方不明になっていて朝まで帰ってこなかった時にも旭はこの電車だけは背負った小さなリュックに詰めて持って行っていた。その時はたいへんな大騒ぎになって、警察にも捜索願いを出して大規模な放送をしてもらい、電車に乗って何処かに行ったのかもしれないと言うと各線、各駅に情報伝達してもらい一日がかりで捜索した。そして案の定、旭は小さな田舎駅で保護された。
 電車に飛び乗ったはいいが、眠ってしまい気付くとかなり遠くまで来てしまっていて、時間も遅くなったので仕方なく駅のベンチで泊まってから帰ってくる途中だったらしい。それを聞いて、翠はある意味凄いじゃんと旭を誉めた。
「よくやったねー」
 けれど、旭は唇を真一文字に咬んだままなにも答えなかった。思えばその時から旭は色々と思う所があったのかもしれない。透明な羽虫がまた視界を横切ったような気がして、翠は手に取った電車をまた元の机の上に戻した。疲れたのかもしれない。



「なにがあったのか知らないけど、旭、こっちに住むって言ってるから。正式に引き取る事にする」
 数日後、仕事の昼休みに突如浜崎から電話があった。思わず翠は口に入ったままの卵サンドイッチを、サザエさん宛ら咬まずに飲み込んでしまった。恐れていた電話がとうとう来てしまった事実に対して上手く順応出来ていなかった。
「・・・引き取れるの」やっと出てきた言葉はそれだった。
「ああ、俺のとこは別に平気だから。近いうちに手続きやらの書類送るから」面倒臭そうに浜崎が答える。
「旭は・・・ 元気?」一番気にしていた事が、ようやく口から出てきた。
「もちろん。毎日楽しそうだよ」
 楽しそうなんだ。そっか。そうだよね。そりゃ、そうだよね。だって、怒られる元凶のあたしがいないんだから。そりゃー
「・・・そう。あ、あたし・・・ひっ、引っ越す事に、したから」やけに噛み噛みでそれだけを口にした。
「そうなんだ。そりゃそうか。旭もこっちに来ちゃったしな」
 当たり前のように納得した返事をした浜崎に底知れぬ殺気を覚えたが、どのみち自分は色々な事に負けてしまった負け犬なのだから仕方ないと思って堪えた。旦那を取られ、最愛の子どもまでもをなくしてしまった。しかも自分のせいで。
「・・・あ、旭には言わないで」
「どうして?」
「気持ちが迷うと思うから。・・・面倒事はもうまっぴらだから」精一杯の虚勢を張ったつもりでも口にすると虚しかった。
「っそ。よくわかんないけど、そういうもの?」
 あっけらかんと自分の仕出かした事なんて忘れて、そう口に出来る浜崎にわかれと言う方が無理な事なのだろう。
「そうよ」
「わかった。じゃあね」
 翠は通話終了音鳴り響く携帯をいつまでも耳につけたまま固まってしまった。さっき飲み込んだ卵サンドがまた上がってきそうだった。目の前で無数の透明な羽虫がチラチラチラチラ飛びちがう。・・・気持ち悪い。翠は前のめりに突っ伏した。
作品名:2月 涙虫 作家名:ぬゑ