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2月 涙虫

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 それを聞いた翠はとっさに鍵を開けようとしたが、目を瞑って必死に自分の手を止めた。
「母さんっ!いるんだろ? 開けてよっ!俺が悪かったからっ!」
「・・・旭は悪くないよ。でも、ごめん。ここは開けられないんだよ。ごめんね」
「どうしてだよっ!どうして? 俺を置いてくのかよ?」
「旭はお父さんの所でおじぃちゃんとおばぁちゃんと一緒に暮らした方が幸せなんだよ。その方がいいんだよ。母さんとじゃ無理なんだよ。そんな事わかってるでしょ」
「そんな事ねーよっ!俺、もう我が儘言わねーから!家出なんてしないからっ!」
「いいの。旭の意思は大事にして。母さんはその意思をきっと壊しちゃうから」
「開けてよっ!母さんっ!おい、開けろっー!」
 大声で怒鳴り散らす旭に、翠は泣きながらただ謝る事しか出来なかった。無数に沸き上がる羽虫の透明な羽に覆われて、まるで分厚い濁りガラスにでも閉じ込められてしまったかのようだ。
「・・・ごめん。ごめんね」
「くそっ!どうして開けてくれねーんだよっ!どこに行くんだよ!どこに行っても俺は行くからなっ!絶対に母さんの傍にいるからなっ!」
「ダメなの。今はダメなんだよ。もう少し時間を置いて・・・それでも来たいなら、来てもいいから」
「なんだよそれっ!何処に行くんだよ? 教えてくれたっていいじゃないかっ!俺は母さんの子どもなんだぞ」
「神戸だよ。ねぇ旭、母さんの携帯にさっきからずっとおばぁちゃんから電話がかかってきてるの。心配しているんだから、もう帰りなさい」かかってきてもいないのに翠はとっさにそんな嘘をついた。途端に扉の向こうの旭は急に静かになった。
「もう旭はお父さんが正式に引き取った事になったんだよ。だから旭の家はおばぁちゃん達の家なの。ここはもう旭の家じゃない。帰りなさい。そのうち、蛍ちゃんとも正式に姉弟になれるかもしれないんだから」
「うるせーよっ!俺は蛍と姉弟になんかなりたかねーんだっ!どいつもこいつも勝手に決めつけやがって!母さん、待ってろよ!俺は必ず母さんと一緒に住むからなっ!それまで勝手に男なんて引き込んで同棲とかすんじゃねーぞ!わかったなっ!」
 それだけ言うと、旭が駆けて行ったのが足音が遠ざかっていくのでわかった。いつのまに旭はこんなに強い子になったのだろうと正直その勢いに翠は驚いてしまった。さっきまで視界を迂路ついていた透明な羽虫は何処へやら、翠は数ヶ月くらい前に旭が蛍を自分の部屋に連れ込んでいた事を思い出した。
 そう言えばあの時は、仲の良い姉弟って言うよりはもっと特別な雰囲気に感じたのは、旭の蛍を庇う様子があの塗装の剥げた電車を慈しんで走らせていた時の様子に似ていたからだろうか。なにはともあれ旭が蛍と姉弟にはなりたくないのだと思っているらしい事がわかって・・・そういえば旭はいつ浜崎の相手が蛍の母親だとわかったのだろうかと疑問に思ったが、翠はそそくさと中古で売りに出そうと思っていた処分同然の物から旭の荷物を別に分け始めた。やっぱり、机もいるかもしれない。


 月が変わり、梅も綻び一足早い春の気配を感じさせる清々しく薄い色をした青空の下。神戸に出発する為に駅のホームで新幹線を待っている翠の携帯に浜崎から着信があった。取らなくても大体の内容は想像がついた。
「今何処にいるの? ああ、そうか。今日から行くのか。あのさ、ちょっと旭、引き取ってよ。俺、無理。ダメだ。やってけない」この間の父親の威厳みたいなものは何処にやらいつものダメな浜崎の口調で子どものように懇願してきた。
「何言ってんの。自分で言ったんだから、成人するくらいまで頑張りなよ」翠は冷たく切って捨てる。
「いや。無理だ。なんか毎日殴られるし・・・」
「レスリングごっこ好きだからね。男なんだから相手してやんなよ」
「無理。だってあいつ本気で殴ってくるんだぜ。俺、やられちゃうよ」
「散々やられれば。じゃあーねー」
「おい、ちょっと待っ・・・ブツッ!」
 ホームに冷ややかで新鮮な風を纏った新幹線が滑り込んできた。翠は無理矢理電源を切ってから鞄に携帯を放り込んだ。心配症の義母が買い与えた旭の携帯から送られてきたアドレスにはもう引っ越し先の住所のメールを送ったのだ。情けない浜崎がこの調子だと、旭が来るのが早まりそうだと思った。でも、もう大丈夫。もう涙虫は見えないのだから。
 何処かで紅梅が咲いているのか柔らかい香りが混じった空気を大きく深呼吸した翠は、風に短い髪を靡かせ赤いピンヒールを軽やかに響かせながらトランクを引きずり新幹線に乗り込んだ。もうすぐ春だ。
作品名:2月 涙虫 作家名:ぬゑ