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2月 涙虫

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「大丈夫です。そこは何処かのアパートで、私と知らない若いママがいるの。そこに新しい若いパパが遊びに来るの。2人は夢中になってゲームをし始めるんだけど、私はあまりにもママが私を見てくれないから寂しくなっちゃったの。ママは私と2人っきりでいるときもゲームばかりしていて、話もろくにしてくれなくて。だから私はゲームが大嫌いで勝手にゴミ箱に捨てたりしてすごい怒られたりしてた。その時もしきりにママに話しかけた。でも私ね、うるさかったんだって」
 珍しく早口気味に話すと、蛍はそこで伏し目がちになって一旦息をついた。
「ママと新しいパパが怒って私の手足を縛って、ビニールのポリ袋に入れて隣の部屋に閉め出したの。怖かった。本当に怖くて怖くて仕方なくて、だから私は泣くのが止まらなかった。でも少しすると苦しくなってきて。苦しくて苦しくて、いくらママに助けを求めても、呼んでも来てくれなくて、そうしたら頭がぼぉーとしてきて、気付いたら今のママが赤ちゃんの私におっぱいを与えながら優しく笑っていたの」
 彼女は表情も変えずに淡々と話した。その生々しい現実味を帯びた内容に翠は涙が止まらなくなり嗚咽を漏らした。旭は今いちよくわかっていないらしく、きょとんとした顔をして蛍と翠を交互に見つめているだけ。
「どうして母さん泣いてんの?」
「酷い仕打ちで命がなくなった前世の蛍ちゃんが不憫なの」
「どうして。だって、その時に死んじゃったから今の蛍があるんだろう」
「そりゃそうだけど、可哀相じゃない。胸が痛いよ」翠のその言葉に蛍は申し訳無さそうにごめんなさいと言った。
「なんで蛍が謝んだよ。母さん!泣くなよっ!」
「だってだって、悲しいじゃないのー」翠は涙を振り飛ばして号泣した。
「なんでだよ。蛍は幸せになる為に生まれ変わってきたんだ。殺されて終わりじゃねーんだ。これから幸せになるんだろっ」
 気付くと蛍も透明な涙を流して泣いていた。翠は泣くのも忘れてあっけにとられて旭を見ていた。
「旭・・・あんた、すごい良い事言うじゃないっ!いつも悪い点数のテスト用紙持って腰低くしてくる時とは別人みたいよっ!母さん見直したよっ!」
「おい。なんでだよ。それ誉めてんのかよ」
「誉めてるんだよっ!旭がそんなしっかりした男の子だったなんて・・・!母さん嬉しくて涙出るっ!ね、蛍ちゃん!」
「なんだか微妙に喜んでいいのかどうかわかんねー」不貞腐れてそう言いながら顔を赤くして苦笑いする旭の横で、蛍が頷きながら涙を拭きにっこりと笑っていた。汚れなんて無縁の何とも可愛らしい子だった。
 そんな生い立ちを持つ蛍に幸せになって欲しいと翠も思った。だからこそ、今回の浜崎の行動には到底許せないものがあったが、蛍と旭が晴れて姉弟になるのならそれはそれでいいのではないのかとも思うのだった。でも、そうするとやっぱ、私はいらないって事になるのかぁ・・・なんだかちょっと寂しいな。心優しい蛍ちゃんは今回の事、どう受け止めているんだろうかと少し心配にもなってしまう。あの楽しかった夏の日が奇妙に鮮明過ぎたからだろうか。街の灯りが空に瞬く星より強く光り出す窓の外を無気力に見つめる翠の目にふと透明な羽虫のようなものがふわふわと浮遊していくのが見えた。こんな時期にもう羽虫。 そう思っていると羽虫が見えなくなるのと同時に不思議といくらか気分が軽くなったような気がしたので、翠は脱力したように肩を落とすと、コンビニに煙草を買いに行こうと思い馴染みのブーツとジャンパーを突っかけて家を出た。主食が煙草になる日も近いかも。


 近所の馴染みのコンビニに行くのが嫌で、遠周りした所にあるコンビニまでわざわざ歩いていった。近所のコンビニの店員は旭の事も知っていたからだ。日曜日のこんな時間に一人で行ったら、何かあったのかと怪しまれるかもしれない。
 年は開けたがまだ油断ならない寒さだったので足下は履き込んで汚れた黒いエンジニアブーツ、厚手の長袖に安物のジャンパーだけの格好で加え煙草をしながらポケットに手を突っ込んでぶらぶら歩く。伸びきった茶色い髪がなければさながらおっさんだ。ヘッドライトを嫌がらせ並に照らして走る車の通りのそこまで多くない道路を歩く人影は案外少なかった。街路灯が明るく俯く中、翠も負けずに俯いてコンパスのようにクルクル回る自分の影を踏みながら歩いた。どこも変に明るくて影はその度に消えたり現れたりするものだからなかなか難しい。口の先の煙草が次々と灰になって燃え落ちて服や足に纏わり付いた。
「一応俺の母親なんだから、歩き煙草止めろよ母さん」口うるさい旭の台詞が蘇る。うるさい旭。あたしの勝手でしょ。あんただって、浜崎に教わった煙草を隠れて吸ってる事くらい母さんが知らないとでも思ってんの? まったく。
 どうしようもない親子・・・
 ちょこまかしたBGMが流れる店内で、翠はスナックパンとヨーグルト2つを籠に入れた。それからパック牛乳とメロンパンを買った所ではっと思いとどまって2つを元に戻した。おやつはいつもメロンパンと牛乳が定番の旭はいつ帰ってくるかわからないし、翠は牛乳が好きじゃなかったからだった。
 おでんを買おうと思って、具を選んでいると無意識に卵やらソーセージやら旭の好物にばかりトングを伸ばす自分に気付き、なんだか寂しくなったのでいつもなら絶対に選ばない蛸串やらハンペンをカップに入れた。別に自分もそんなに好きではなかったがなんとなく自分だけだと感じるのが侘しかった。煙草をカートン買いしてから、外に出た。本当は肉まんもあんまんも食べたかったが、いつも2つ買って旭と半分こにして分けていたので、2つとも食べられる自信もどちらかに決められる自信もなかったので断念した。それでも、2つ買ったヨーグルトの1つは旭の好きなブルーベリーヨーグルトを買ったのだ。帰って適当に食べて寝よう。どうせ明日も仕事なんだしと思いながら歩いていると、地元の友達から電話がかかってきた。
「もしもーし!遅くなったけど、あけおめー元気ぃ? 聞いたよ、あんた離婚したんだって。大丈夫ー? あんた見た目は元気だけど実は落ち込んだりしてる事多いじゃん。旭君は、元気? 今もそっちに住んでんのー?」
 高校からの同級生だった親友の耳元で響く明るいその声に、思わずふっと肩の力が抜けた笑いをしながら翠は答えた。
「まーねえ。だいぶ前にね。御陰様でなんとか元気だよお。旭も・・・うん、元気だよ。まだこっちに住んでるんだー旦那の実家も近いから本当は引っ越したいんだけどさ」
「そっかあ。でも旦那の実家近い方が旭君がいつでもおじぃちゃんおばぁちゃんに会いに行けるからね。そこは難しいとこだね」
「だよね。実は今旭が家出して向こうに行ってるんだ。もう今日で2日目。向こうが引き取りたい的な話もちらほら出てるし、旭が向こうに行きたいのなら、もういいのかなって・・・」
「えっ、それでいいの? 旭君取られちゃって、本当にあんた大丈夫なの?」
「仕方ないよぉ。旭が言うにはあたしは厳し過ぎるんだってさ」
作品名:2月 涙虫 作家名:ぬゑ