小鳥と少女
雲がごうごうと泳いでいる。
今日は小鳥が来るのが早かったので、まだ昼が過ぎたばかり程度の時間帯のようだった。最近にしては珍しく真っ青な空に、目に痛いほど白い雲が悠々と漂っている。
純白。
の、雲。
ああ、同じ真っ白なら。
雲に生まれたかった。
窓下の壁に頭を押し付けながら、白鷺は切に思った。
半ば願うように。
「小鳥さん、何しにいったんだろ……」
今日はまた来るのだろうか。
そんなことがぼんやりと頭の隅を過ったとき。
がん! とカンテラが打つかる音がした。びくりと目を剥く。……いつもより苛立っていることを示すようなその乱暴な音が、妙に息苦しかった。
どくんどくん、と重く波打つ心臓の辺りを押さえ、震えるように振り向く。
「白鷺ぃ!」
老婆の魔女が憤怒の形相で立っていた。
「あ……………………、え?」
俯きかけて、ふと、彼女はおかしなものに気付いた。
老婆の手の中。
握りつぶすように、して。
緑の、羽毛。
赤、く。
染まった、それは。
「……こ、とり……さん!」
さっと白鷺の顔から血の気が引く。
どうして。
どうして小鳥さんが、あんな姿に。
「いつの間にこんなもの手懐けたんだね!」
呆然とする彼女の耳に、雷鳴のような嗄れ声が突き刺さる。
「え……?」
のろのろと面を上げて、問いかけるように零す。
「この鳥はね! あたしらの家の鏡を割りやがったんだよ! 鏡は魔女の最も大事な道具なのに!」
『私はこれから一仕事してくるので、それが終ったら教えます』
まさか。
「村の……全部……?」
「そうだよ! お前が命じたんだろう! この鳥からお前の匂いがぷんぷんしたよ! 汚いやつめ!」
そう言って、老婆はばしっ! と小鳥だったものを投げ捨てた。どん、と壁に打ち辺り、白鷺の頬に肉片が飛ぶ。びちゃりと生々しい感触が伝った。
「何て事をしてくれるんだい! もう台無しだよ! 大人しくしてると思ったらこんな報復をしてくるなんてね!」
白鷺は魔女の言葉を半分も聞いていなかった。ただ、どくどくと早まる鼓動を煩く思いながら、小鳥の屍骸の方に、ぎこちなく顔を向けた。
黒い眼窩。
瞳がなかった。
赤茶色の白い腹。
血肉がほとんど失せていた。
無惨な片翼。
羽は毟られ、片方はもがれていた。
「……ぁ、あ……っ」
酷い。
なんて、酷い、姿。
「まったく……大して役にも立たなさそうな身体だったし、本当に最悪だ」
白鷺は大儀そうなその嗄れ声を、老婆を、魔女を、ゆっくりと振り仰いだ。
「あなたが、やったの」
情けないほど震えた声だった。
魔女は当たり前のことを訊かれたような顔をした。
「それが何だね?」
胸焼けがした。
どろりと腹の底が唸り、熱くなった。
鍋に灼かれているようだ。
目の端がちりちりする。頭はがんがんする。視界が上手く映っていない。
ああ、と白鷺は理解した。
これが、怒りか。
白鷺は生まれて初めて怒っていた。
殺意、が。
少女の中で吹き荒れる。
なのに、何処か、脳の隅っこには冷静な部分がある。どうすれば、この魔女を懲らしめられるか、ずっと考えている。
今にも噛みつきたい衝動を抑えて、淡々と唸る。
「どうして。どうして、こんなに奪ったの。そんなに、必要なものが、あった?」
禁忌の魔法が使えるでもないというに。
「口の利き方に気をつけな。——必要なわけないだろう。血も肉も大してないし、そんなに良いものでもない。骨も眼も、つまらない。やっぱり小さかったり上物じゃないのは駄目だぁね。百千鳥はストックの役にくらいしか立たん」
ふち、と何かが切れた。
最近は開け放してばかりの窓から強風が吹いてくる。それに呼応するように白鷺の周りで何かが静かに爆ぜた。
じゃらんっ、と足枷の鎖が弾け飛ぶ。それに続くようにぱきぱきと足枷も砕け散った。鉄柱の鳥籠は、唸る風に傷をつけられ、がらがらと崩れていく。瓦礫となる。
木片と鉄片が風に舞う。
その中で、どうしてか小鳥の周囲だけは静かなままだった。
「っな、お前、こんなこと出来ない筈だろう!」
台詞まで小悪党なみだ。白鷺は皮肉気に笑った。凄惨に。
何故気付かなかったのだろう。
『再生』の力が使えるならば、その逆が出来ないというのもおかしな話だ。
『再生』とは、戻せないものを戻す魔法。
不治の病なら、治る未来を想定して、そこまで生命の在り方を変えるのだ。
ならば。
壊れる未来を想定して、そこまで変えてしまえばいい。
その在り方を。
ああ。
だから禁忌なのか。
異端なのか。
忌むべきなのか。
「……どうでもいいね」
ぽつりと白鷺は呟いた。
白鷺にとってどうでもよくないことは、小鳥と、小鳥の名前を聞くことだったから。
尻餅をついて恐怖に醜く引き攣った貌で後ずさる魔女の前に立ち、腰を屈めて顔を寄せる。
「お前の眼をくり抜いてやろうか?」
「な?! は、その前にあたしが……っ」
焦ったらしい魔女が、がくんと体勢を崩しながら、炎を出す。蛇のようなそれは白鷺に食いついてきた。けれど、直ぐに消える。破壊される。
「小癪、な……っ」
またも小悪党な決まらない台詞を吐き捨てて、魔女が濁った瞳を忙しなく泳がし、血走らせる。
別に、好きでやっているわけではないのだが。
これも本能というものなのだろう。勝手に機能する。
「お前のその髪を毟ってやろうか?」
小鳥と同じように。
「お前の血肉を抜き出してやろうか?」
小鳥と同じように。
「お前の片腕をもいでやろうか?」
小鳥と同じように。
「ねぇ」
「っっっひッ、ひぎぃぃぃぃいいっ!」
ちんけな悲鳴だ。
白鷺はその双眸から、表情を、感情を、全て消し去った。前髪が蔭を作り、片目を隠す。
「一生、苦しんでいればいい」
低く、彼女は囁いた。
悪魔のような目で。
魔女はばたりと失神した。
白鷺は、魔女の額に微かに触れて、少しだけ力を込める。一瞬瞼を閉じてから、上体を上げて、くるりと踵を返した。
「小鳥さん……っ」
いつの間にか風は止んでいて、白鷺の、裸足がぺたぺたいう音だけが響いていた。
小鳥は相変わらず無惨な姿で倒れている。
その直ぐ傍で真っ白けの少女は膝をついた。
小鳥の死んだ姿を見るのはこれで二度目だ。
けれど。
もうあのときのようには思わなかった。混乱もしなかった。
ああ、そう、そうだ。
気持ち悪くなんかない。怖くもない。——違う、怖い。
とても、とても怖い。
もう、小鳥が喋ってくれなくなるかもしれないことが。
もう、名前を教えて貰えなくなるかもしれないことが。
怖い。
怖いよ。
だから。
「起きて」
白鷺はぼろぼろの、中身がほとんどない小鳥を抱きしめた。抱え込み、屈み込み、神様に祈るみたいに。
血を吐くように。
小さく叫ぶ。
「起きて」
ああなんて利己的。
私は貴方が居なくなって欲しくないから。
この忌むべき魔法を使う。
「起きて、小鳥さん」
起きて。
もう怖い夢は見なくていい。
朝だよ。
「 お き て 」
ふわりと、白鷺の腕の中で光が溢れた。