「山」 にまつわる小品集 その壱
山口美也子は中学校を卒業すると、大阪市淀川区にある尼北紡績(株)に就職した。会社の寮は、阪急神戸線の園田駅にあり、会社の工場がある神崎川駅の隣の駅である。
両親と小学生の弟ふたりの見送りを受けて、山陰本線鳥取駅で集団就職特別列車に乗り込んだ日から、もう4年になる。
ゆっくりと走る列車は各駅に停車し、同じようなセーラー服を着た少女たちや黒詰襟の学生服をまとった少年たちを乗せていった。美也子が坐るボックス席には同じ中学に通っていた友達が占めていたが、会話はない。駅での別れの風景をぼんやりと眺め、列車が走りだすと目を閉じて背もたれに頭をもたせ、それぞれの思いにふけっていたのである。
窓側に座っていた美也子は窓枠に腕を乗せ、その上に顎を乗せて窓の外を眺めていた。山の間から時々海が望まれた。風はまだ冷たかったがこの風景を、そしてこの地の匂いをしっかりと刻みこんでおきたかった。
ポーッ、ポーポー
蒸気機関車はトンネルに入る前に汽笛を鳴らす。
「窓ぉー閉めろぉ―」
と誰かがその度に叫んでいた。
ガタン ゴトン ガタン ゴトン
母に抱かれているような心地よい揺れが眠りを誘い、夢を見ることもなくうつむき加減で頭を揺らしていた。
空が白ずんできた頃、大阪駅に到着した。おおぜいの人が、それぞれの会社の旗を持ってホームに立っていた。
美也子は友達と別れ、わずかばかりの着替えを包んだ風呂敷を胸にかかえ、ごった返す人込みをかきわけて尼北紡績の旗を探した。
8人の少女が一緒だった。みんな同じようにわずかの荷物を持っているだけで、静かに迎えの男の人を取り囲んでいた。
入社日まで数日ある。先に寮に案内された。
モルタル3階建ての瀟洒なそれは36部屋あり、ひとりに1部屋あてがわれた。山あいの貧しい農家で育った美也子にとって、自分だけの部屋が持てるなんてそれだけで夢を見ているかのような気持ちになり、郷愁はあれど貧しかった生活のことより、これからのことに希望を見い出していた。
寮と会社を往復するだけの生活が続いた。給料のほとんどは実家に送っている。弟たちが高校を卒業するまでは続けるつもりだった。
阪急電車で2つ3つの駅を過ぎると繁華街である。大阪の梅田には大きな百貨店が2つあると聞いていたが、まだ一度も行ったことがない。寮生活に、新たに必要とする物がなかったからである。ほとんどが女性ばかりの工場にあって、先輩が時々お下がりをくれる。それだけで十分だった。
それに、繁華街にはオオカミがいる、とも聞かされていたから。
☆ ☆ ☆
「ねぇ美也、あなた鳥取の山あいに住んでたんでしょう? なら、山を歩くのって慣れてるよね」
と声をかけてきたのは2年先輩の小池幸子だった。
「えっ? はい。山菜をとったり枯れ枝を拾いに山にはよく入ってました」
「なら合ハイに参加しようよ。一緒に行ってくれる人を探してたんだ」
「ハイキングですか・・私なんにも持ってないですし・・・」
「あなた、こっちに来てから自分の物、なんにも買ってないんじゃないの。ここはひとつ奮発しなさいよ。相手の会社の人たち、素敵な方ばかりよ。もしかしたらもしかして、なんてこともあるんだから。リュックザックは私のお古でよかったら差し上げるわよ」
ほとんどは先輩たちのお下がりで間に合わせ、運動靴だけを買った。すべりにくい少し値の張る靴だった。足に慣らすため、毎日それを履いて工場へ通った。
作品名:「山」 にまつわる小品集 その壱 作家名:健忘真実