「山」 にまつわる小品集 その壱
仁恵は明王院に戻り、木食行を始めた。
十穀断ちをし、木の実や草の根だけを食べて体を骨と皮だけとし、不浄な物はすべて出し切るのである。
入定する場所は明王谷を遡り、比良の山を越えた堂満岳の岸壁にある洞を指定した。ここから琵琶湖がよく見える。仁恵は生まれ故郷をまぶたに残しておきたかった。
弟子たちは体力の衰えた仁恵を案じた。また自分たちも付き添っていなければならないのである。
山の民に導かれて、白装束の仁恵が堂満岳の稜線にある時、立派な角を携えた牡鹿がじっと佇んで視線を投げてきた。
(なぜ死に急ぐ)
(私は死ぬのではない。仏となり、民を救うのだ)
牡鹿はしばらく仁恵を見つめた後、崖を駆け降りていった。
仁恵は衆生救済を祈願して入定した。
入口は大小の岩や土でふさがれた。外界とのつながりは、空気孔として残された1本の竹筒のみである。
鈴を鳴らしては読経する。
弟子はすぐそばにあり、師の言葉があればすぐさま紙に書き取った。ふたりの弟子は交替で任に当たった。
高く澄んだ音を出していた鈴の音は次第に弱まり途切れがちとなる。
――己を捨て世に尽くし、荒行にも耐えてきた
果たしてそれでよかったのだろうか?
もしかしたら自己を満足させるため、そうしていたのではないか?
仁恵の心の中に小さな迷いが生じた。あの牡鹿の目が蘇った。
稜線から眺めた情景が浮かんだ。紅葉した木々、鳥のさえずり。きらめく湖面を行く渡り鳥。
――行を積み、智慧を体得しすべての不安や恐れから解放されて、一切 の迷いを打ち破って悟りの境地に達したかと思っていたのだが・・
まさに仏になろうという瞬間、雑念が生じたことにとまどった。
己の心に問うてみた。
――生きたい
それは最後のつぶやきとなって出た。
「生 き た ぃ」
「なんと仰せられましたか?」
3年と3カ月後、洞から出され籠で担がれて明王院に下り、紅い絹衣を着せられ厨子に安置された。
即身仏仁恵上人として祀られ、多くの民に安らぎを与えたという。
2011.5.5
作品名:「山」 にまつわる小品集 その壱 作家名:健忘真実