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空蝉に青空

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 今日は楽しみにしていたはずの夏休み初日。けれど水華の心は晴れないまま、家の中でぼんやりと時間を過ごしていた。うだるような暑さのなかでは出かける気にもならない。かといって宿題をやる気にもならずに、自分の部屋のベッドの上でごろごろと時間が過ぎるのを感じている。
 ルルルル……、と階下で電話が鳴った。次いでそれを取る母親の声が聞こえる。耳を澄ましてみれば、相手が水都の両親だと言うことが何となく分かった。元は母親同士が幼なじみだと言うことで、よくこうやって長電話をしている。全部は聞き取れない会話を途切れ途切れに聞きながら水華はため息をついた。
(……水都のばぁか)
 よりによって水都の出発前にけんかをしてしまった。携帯に何度か電話が来たけれど、出ないままだった。確かに言ってはいけないことかもしれなかった。ただ、怖いものは怖いのだ。いくら成功率が高くたって、受ける側の不安は変わらない。
「失敗したら、死んじゃうかもしれないのに」
 もう一度口に出してみる。そんなことない、と水都はあのとき言ったけれど、根拠なんかあるはずもない。でも喧嘩したまま一週間離れることは初めてで、いまさらどうしよう、と不安になる。
(呆れた、よね。でも……)
 このところ毎日堂々巡りに悩んでいる。答えは一向に出ないままだ。
 ふと気が付くと階下(した)から聞こえる電話の話し声が少しだけ潜められたことに気付く。そっと足音を立てないように階段を下りると、話題はどうやら水都のことらしかった。ちらりと見えた母の顔が心なしか緊張しているように見える。
「大丈夫よ、きっと。ええ──……そうね。それじゃ」
 カチャリ、と受話器を置くと同時にうしろから声をかけた。
「水都、どうかしたの?」
 長々と水都の両親と何やら話し込んでいた母親に、水華は聞いた。けれど母は不自然なほど笑顔を貼り付けたまま、首を振る。
「水都くんは海でボランティアでしょ。なにもないわよ、安心なさい」
 それが嘘なのだと水華は知っていた。母はいつも都合が悪くなると途端に優しくなるのだ。
「うそ。そうやって、いつもあたしにうそを吐いてる! 水都になにがあったの!?」
「落ち着きなさい、水華。そんなに興奮すると心臓が……」
「そんなの関係な──」
 憤りのままに叫ぼうとした水華は、突如聞こえたインターホンによって遮られる。母親はこれ幸いとばかりにいそいそと来客用の声を出しながら玄関に向かう。が、部屋に戻ろうとした水華は、玄関先から聞こえた声にぴたりと止まり、きびすを返した。
「金城先生!」
「佐々木、ちょうどよかった。今──」
「先生、この子の心臓に負担をかけないで下さい。調子がいいからって無茶をするんですから」
「先生、水都になにがあったんですか?」
「水華ったらいい加減にしなさい。何もないって言ってるじゃない」
 金城は交錯する会話をしばし黙って見続け、途切れるのを待った。水華の母の気持ちは分かる。それは娘を心配するがゆえの感情だ。
「娘さんに負担をかけたくないのなら、隠すのは逆効果だと僕は思います。……隠されて、あとから知る真実は人をより傷つけるのですよ」
 いつもの気さくで親しみやすい金城ではなく、毅然とした「先生」の姿だった。母親は黙り、金城と水華の顔を交互に見る。そして水華の母親が小さくため息をついた。そのまま金城に向かって礼をすると、奥へと引っ込んでしまった。それが肯定の印なのだろうと金城は解釈し、立ち尽くしたままの水華に話しかける。
「佐々木、落ち着いて聞けよ。……東條が、海で溺れて病院に運ばれた。意識はまだ戻っていない」
 どくん、と心臓が騒ぎ出す。無意識に心臓に手をやって服をぎゅっと掴む。
「ど……う、して」
「……遠くへ行った子供を助けようとしたんだ。子供だけ何とか引き上げたんだが東條は沖のほうへ……そのときに岩かなにかに頭をぶつけたらしい」
 天気が急変したんだ、と金城は言った。波が荒れ、それに呑まれたんだと。水華は必死に事実を頭に入れようとしたけれど、心がそれを真実として受け止めてくれない。
 どくどくと心臓が大きく脈打つ。このままの状態なら、いつ発作がおきてもおかしくない。
「……っ、ミナ、ト……」
「大丈夫か!?」
 金城の声に反応したのか、引っ込んでいた母親が慌てて出てくる。
「水華!」
 その二人の手を振り切って、心臓に手を当てたまま金城を睨むように見つめた。
「先生、水都はどこですか?」
「佐々木」
 休めと咎めるような声に、水華は反抗した。
「水都はどこ!?」
 何を言っても無駄だろう、と金城は観念する。そもそもそれを言いに来たのだから別に困ることはないのだが、いまにも倒れそうな水華を見たら、やはり言うべきではなかったのかと後悔が頭をもたげてくる。けれどいまさらもうあとには引けない。
「──学校のそばの、総合病院だ。……って、待て!!」
 ヒールの低いサンダルを履いて駆け出そうとした水華の腕を、寸でのところで金城が掴む。
「離して下さい」
「無闇に走るな! ……そのために家の前にタクシーを待たせてるんだ。佐々木に何かあったら、東條は悲しんで自分を責めるぞ。それでもいいのか?」
「………よくない、です」
 ぎゅっと唇を噛み締め、俯く。その頭をぽんぽんと優しく撫でながら、金城は水華の母親に許可を取り、彼女をタクシーに乗せた。


 駆け込むように病院にたどり着くと、水都を見ていた医師からとりあえず無事だと言うことを伝えられた。ほっと座り込んだ水華に、金城は病院の中庭へと連れ出す。
 ジジジジ……
 蝉が木の上でうるさく鳴いている。夏真っ盛りのいまは都会であっても蝉の大合唱が聞ける。別に聞けたところでどうと言うわけでもないが。けれど金城は真っ青な空を見上げて、嬉しそうに伸びをする。
「ほら、いい天気だ。こんな日に、思いっきり水の中を泳ぎたいって思わないか?」
「──……思います、けど」
「けど、いまは泳げないよな」
「……先生もあたしが手術したほうがいいって言うんですね」
 低い声で言った水華に振り返り、金城は真面目な顔で言った。
「なぁ、佐々木。東城は手術をしないから怒ったんじゃないだろう」
「え?」
 金城は地面から何かをひょいっと掴み上げると、それを見ながら言葉を続ける。
「佐々木が生きようとしないから、東城は怒ったんだ」
 水華は返す言葉を見つけられなかった。
 金城は水華の目の前に蝉の抜け殻を差し出した。それが太陽の光に透けて、綺麗な金茶色になっている。水華はただ黙ってそれを見つめた。
「ほら、いまの佐々木はこの抜け殻みたいなもんなんだ。ここから抜け出して生きることができるのに、それを諦めようとしてる」
「………失敗するかもしれないのに。手術を受けるのはあたしなのに、どうしてそんなこと」
「そうだな、俺は佐々木みたいに大きな病気になったことはないから気持ちは分かってやれない。だけど、東城や俺は佐々木に生きていてほしいと願ってるんだ。……いまの佐々木がそうだろ?」
作品名:空蝉に青空 作家名:深月