空蝉に青空
そして、ああそうだと思い出す。まだ自分が病気を持っているなんて知らなかった小学一年生のころ、プールで泳いでいたときに急に苦しくなったのだ。それが初めての発作で、すぐに病院に連れて行かれた水華は、そこではっきりと心臓病だと診断を下されたのだ。以来、プールは愚か、一切のスポーツは禁じられ、少しでも息を切らそうものなら両親や先生がこれ一大事と駆けつけるようになった。心配してくれているのはよく分かっているが、元来身体を動かすのが好きな水華にとっては苦痛の毎日だった。特にプールは大好きな科目で、熱があっても入りたいと思うほどだったから、それがもうできないのだと知ったときは人知れず泣き続けたものだ。
そのときに、手を握ってくれたのは幼なじみの水都だった。
「おれがミズカのかわりにおよいでやる。だから泣くな」
自分のほうが泣きそうな顔をして、けれど強い意思を瞳に秘めて、言い切ったのだ。そこまで思い出してふふふと笑う。
(あのころの水都は泳げなかったのにね)
泳ぐどころか、顔を水につけることすら怖がっていたのに、いまや水泳部のエースとは。もちろんひとえに水都の努力の賜物だけれど、未来は分からないものである。そして、そのときの約束通り、水都はいまでも水華のために泳ぎ続けているのだ。
(でも……ちょっと辛いよ)
成長するにつれ、自分のためではなくて水華のために泳ぎ続ける水都を見ることが嬉しいだけではなくなった。自分が水都を縛り付けてしまったのだと思うと、苦しくて、少しだけ辛い。けれどそれを突っぱねることができなくて、優しい水都の心に甘えてしまっている。
「──……カ、水華!」
何度か呼んでいたのか、水華が気付いて顔を上げたときには水都の顔がすぐそばにあった。どきん、とひとつだけ心臓が脈打つのを押さえる。
「あ……、どうしたの?」
「なんかぼーっとしてたから具合が悪いのかと思って来たんだよ。暑さにやられたか?」
どうやら考え込んでいた水華の様子に心配してきてくれたらしい。どこまでも優しい幼なじみの恋人に、水華はふんわり微笑う。
「ううん、大丈夫。ちょっと昔を思い出してただけ」
「昔?」
「うん。水都、全然泳げなかったのに、いまは水泳部のエースなんだなぁって」
「………そんな昔のことは忘れろっ」
照れたのかぶっきらぼうに言い切った水都のうしろから、ひょいっと顔を出した金城はさも面白いといった顔でぺしぺしと水都の頭をはたく。
「なんだ、東條。お前、昔はカナヅチだったのか」
「ほっとけ! ……ったく、心配して損した」
「ありがと。でも褒めたんだよ? ずっと努力してたの知ってるもん。でもね……」
「あーもう、んな昔の話はとっとと忘れろ! ほれ、帰るぞ」
「ちが……水都ってば!」
言いたいことは別にあったのに、照れた水都に遮られる。いつものこととは言っても、水華はもどかしい。本当はちゃんと伝えたいのに。
水都は照れたのかさっさと更衣室へと歩いていってしまった。その背中を追いかけると、うしろから「寄り道するなよ」と釘を刺した金城の声が聞こえたから、くるりと振り返って笑っておく。水華は横に置いてあった靴下とローファーを手で持つと、てくてくと出口まで持っていって履き直した。その間に早着替えでもしたのかと思うほど全部の支度を終えた水都が大きな鞄を持って出てきていた。二人揃って靴を履くと、校庭を横切って裏門から学校を出る。
「ねぇ、明日買い物付き合ってよ。ほしいものがあるの」
明日からは待ちに待った夏休みである。それを楽しみに地獄のテスト週間を乗り切ったと言っても過言ではない。
「あ、悪ぃ。言い忘れてたけど、来週一週間ボランティアに行くんだ」
「え、めんどくさがりな水都が!?」
「ひでぇ言いようだなぁ。金城センセに誘われたんだよ。インストラクターと見張りの人数が足りないから来てくれって。ちょっとやってみたくてさ。水華も来てみるか?」
海。かなり魅力的だ。けれど、ぐっと堪えてふるふると首を振る。
「やめとく。反対されるだろうし」
「……そか。ごめんな、買い物は帰ってきてから行こうぜ」
「ん」
どちらからともなく手を繋ぎ、家までゆっくりと歩く。沈黙が下りたけれど気にならない。黙っていても気まずくならないのは、ずっと一緒にいるからだと二人が思っているからだ。けれど、だからこそ伝わってしまうこともある。水都はぴたりと歩みを止めると水華を見た。
「……水華、どうしたんだよ? なんか緊張してるだろ」
ぱっと水都を見上げる。図星だった。言いたいことがあってずっと水都を探していたのだ。
「あ……、えと、あたしね……手術受けろって言われたの。こないだ……でも断りたくて」
水都は繋いだ手をさらに強く握った。そんな話は聞いていないと言う意思表示だ。
「なんで」
自然と声が低くなる。
「だって、いまじゃなくたっていいでしょ。あたしは最近調子がいいんだから」
「だからいまなんだろ? ……受ければいいじゃん、手術」
「簡単に言わないで」
「手術が成功したら一緒に泳ぐことだってできるだろ。どうして諦めようとすんだよ」
「失敗したら死んじゃうんだよ!? 生きられないかもしれないのに」
「成功する! 絶対水華は死なない」
「どうして言い切れるの。そんな保障、どこにもないんだよ」
「俺がそう信じてるから」
「手術を受けるのはあたしなんだよ? 水都は分かんないかもしれないけど、怖い思いをするのはあたしだけなの。死んじゃうかもしれないなら、あたしはこのままでいい」
「大丈夫だって言ってるだろ! 俺の言葉を信じろよ。確かに俺は水華の辛さとか分かってないかもしれないけど、俺は水華がいなくなるなんていやだ」
「まだ生きてるよ」
「まだ、ってなんだよ! いま手術しなきゃ、この先長く生きられないって医師(先生)に言われたんだろ!?」
「あたしはいまでも十分幸せなの」
「そ……んなの、あるか……っ……置いてかれる俺の気持ちはどうでもいいのかよ!」
もどかしくて、水都は痛いほど強く手を握る。それを悲しい顔で振り払った水華は、水都の胸に拳をぶつけて叫ぶ。
「じゃあ代わってよ! だれもあたしの辛さなんか知らない。だから簡単に手術すれば治るって言うの。だったらあたしの代わりに手術受けてよ!」
「水……」
「それができないなら、あたしに口出ししないで!!」
「走るな、水華っ! 発作が起きたら──」
きびすを返して走り出しそうになった彼女を慌てて止める。いくら調子が良くても、何度も発作を起こしていたら危険なことくらい水都にも分かる。
「離してよ!」
「走らないって約束してくれるなら。……頼む、無茶はしないでくれ」
「……分かった」
水都が心から心配してくれているのが分かるから、反抗したい気持ちを抑え込んで、けれど水都を見ないまま小さく頷いて背を向けた。そのまま歩き出してしまった水華の背中に、ぽつりと悲しげに呟いた水都の声が届いた。
「俺は、お前を失いたくないんだよ……それだけは分かっててほしいんだ」
答えられないから、水華は何も言わないまま水都の側を離れて帰った。