ソライロバス
ユメコはてくてくと一番後ろの席に戻り、ちょこんと当たり前のようにヒカルの隣に座った。初めの頃よりもずっと心は穏やかで、たとえ会話がなくても空気はやわらかかった。
「…………君は、戻るの?」
沈黙を破ったのはヒカルだった。視線を上げればユメコのほうを向いたヒカルと目が合い、絡みつく。その視線はソライロバスに乗る前、バスの中にいたヒカルから感じた視線と同じもので、ユメコは一瞬言葉を失う。
「──も、どる……よ」
ヒカルの茶色の瞳がかすかに揺れたのが分かった。……分かってしまった。だからユメコはゆっくりと言葉を紡いでいく。ヒカルに聞いてほしいと願ったから。
「……あたしは笑顔でいるのが疲れて、でもそうしなきゃ自分の居場所が分からなくてずっと辛かった。だから多分気付いてなかったけど、逃げたかったんだよね。笑顔じゃなくなれば、みんな離れてく気がして怖かったから。でも、それは本物じゃないよね……」
ヒカルは黙ったままだった。バスの窓から差し込む太陽の光はあたたかく、二人を照らす。ヒカルの茶色の髪はその光に照らされてより薄く、肌はより白く見せて、それがかえって儚い印象を与える。ユメコはどうしてか消えてしまいそうな雰囲気を持つヒカルに向かって、また聞いた。
「ヒカルは……なんで現実から逃げたかったの?」
答えがあるとは思っていなかった。答えてほしいとは思ったけれど、ヒカルが拒絶するなら無理強いはしちゃいけないんだと、ユメコは分かりかけてきていた。
「分からない。俺はただ同じように過ぎていく毎日に鬱屈してたのかもしれない。それか……」
けれど予想外に答えはあった。低めの甘い声で、少しだけ弱々しい声がユメコの耳朶を刺激する。
「それか?」
「……やっぱり、君に会いたかったのかもしれない。君は知らないかもしれないけど、俺はバスの中で友達といる君を見てたから」
うるさくて目立ってたし、と最後に付け加える。ユメコは思わず破顔してしまった。次いで笑いが込み上げてくる。同じバスに乗っていたなんて確かにユメコは全然知らなかった。笑顔の仮面を貼り付けたままいつもいるグループと騒いでいたから、他人なんか見ていなかった。
「なんであたしだったの?」
素の表情で笑うユメコを、かすかに嬉しそうな表情で見つめるヒカルに聞く。
「言ったはずだよ。沈んだ顔をしてる子がいる、ってね。俺は毎日バスの中から見て不思議だった。あんなに悲壮な顔をしてる子が、バスに乗った瞬間不自然なくらい笑顔になることが。その理由(わけ)を、君に直接聞きたかったのかもね。……俺が現実から逃げ出したかったときと君が同じように現実から逃れたかったときが一緒だったからこのバスに乗れた。まぁ、偶然と言えばそれまでだけど」
偶然。多分、偶然以外の何者でもないのだ。けれど、そう言い切ってしまいたくない気持ちがユメコには──恐らくはヒカルにも──あるのだ。ある意味運命的なのだと、どこかのくさい青春ドラマみたいに思ってしまいたいのだ。
ユメコはごうごうと走り続けるバスの中、ヒカルを見る。ヒカルもまたユメコを見ていた。惹かれあう気持ちは、まだきっと恋じゃない。だからそれ以上求めることもなかった。すべては現実に戻ってから、それからなのだ。
「あたし……あたし、戻るよ。戻って"仮面"外してみる。でも、それでもし離れてく人がいたら」
ひとりになっちゃうのかな、とユメコの目がそう言っていた。不安に揺れる黒の瞳を覗き込んで、ヒカルは優しい微笑を浮かべながら、肩だけを抱き寄せる。そしてその耳元で囁いた。
「ひとりにはならない。……俺がいる。このバスで会うことができた、その絆を君は信じない?」
ユメコはヒカルの肩口に顔を押し付けて、化粧がついちゃうなぁと心の中だけで思いながら、ふるふると首を横に振った。
「信じる」
「じゃあ、もう君は戻れるね」
肩から手を離してぽんぽんと優しく叩いたヒカルの腕をがっしりと掴んで、その優しさが宿った瞳を見た。
バスはいくぶん緩やかに、どこか停まるのを待っているような気がした。きっと間違いではないだろう。運転手のおじさんは分かってくれているのだ。ユメコが答えを選ぶ瞬間を。だからまだゆらゆらと揺れているバスの中、座ったままでいた。
「──ヒカルは?」
「俺も戻るよ、多分ね。……そんな顔しなくても、すぐに見つけられるよ。君が俺のことを見てなかっただけで」
泣きそうなユメコを見ながら笑って、ヒカルは言った。でも、見つけられるなんてそんな保証など、どこにあるのか。ヒカルの言葉を信じられなくて、ユメコは立ち上がることができなかった。
「……なんで言い切れるの? 見つけられないかもしれないのに」
「最初の強気はどこ行ったの? 君はしつこいんでしょ?」
あははと楽しそうに笑いながら言うヒカルは、最初よりもずっと喋るようになったし、笑うようになった。逆にユメコは笑顔の仮面がはがれて、色々なことに臆病になってしまったのかもしれない。
バスは次第に速度を落としていって、いまは恐らく自転車で全力疾走しているときと同じような速さだ。びゅんびゅんと移り変わっていっていた風景は輪郭が明確になり、歩いている人や鎮座している建物一つ一つが判別できる程度になっていた。
ヒカルは初めて立ち上がって、ユメコにも立ち上がるように促した。つられて立ったユメコはヒカルに押しやられ、後ろ側の扉の前まで連れて来られる。くるりとヒカルを振り返った拍子に、肩につかないまでの黒い髪が頬を撫でて落ち着いた。
「そうだけど」
「大丈夫だよ。そう思ってれば、大丈夫」
「じゃあ、名前呼んでよ。覚えてないってことはないでしょ?」
結局一度も呼んでくれなかったし、と頬を膨らませればヒカルは「そう言えば」と苦笑しつつ頷いた。バスの速度はもう歩いている人とほとんど変わらず、すぐにキッと短い音を立てて止まった。
「じゃあな、嬢ちゃん」
白い手袋をはめた手でひらひらと挨拶してくれたのは、運転手のおじさんだった。この不思議なバスの運転手は、何も聞かず、何も言わず、ただユメコたちを乗せてずっと走ってくれていた。
答えが見つかるまでずっと──だから、ユメコは「うん」と返事をすると背を向けている運転手に向かって笑いかける。
「ありがとう」
おうよ、と返事が聞こえた気がした。照れ隠しだったのかもしれないと、ユメコはくふくふと笑う。さっきまで不安だらけだったのに、いまはなぜか楽しかった。その笑顔のまま、ヒカルの顔を見上げる。ヒカルは思いの外背が高くて、ユメコは見上げる格好だった。
「先に行くね、ヒカル。あたし、ちゃんと探すから! 待ってるんだからね!」
必死で、繋がった絆を離すまいとするユメコはきらきらしている。仮面を外して、本当の姿になったからだ。ヒカルはそれが嬉しくて、ふわりと微笑んだ。
「………今度は本当のバスで会えるよ、ユメコ」
さらりと低めの甘い声でヒカルが言った──それがソライロバスの中で聞いたヒカルの最後の声だった。ユメコはヒカルの大きな手で握られると、そのままエスコートされるようにいつの間にか空いていた扉の外へと導かれていたからだ。