ソライロバス
真っ白で、何も見えない空間に足を踏み入れた瞬間、ユメコにはもう何も見えなくなっていた。
「やれやれ……やっとお前さんも戻るのか」
ユメコがソライロバスを降りてから、黙って見守っていた運転手のおじさんは苦笑交じりで呟いた。
「三日間、お世話になりました」
「ま、安心せい。現実に戻ったら時間なんぞほとんど経っていないだろうからな」
かかかと笑って運転手はヒカルを見た。
「お前さんも、先に降りた嬢ちゃんもまだまだ先は長い。つらーいことも、楽しいこともまだまだたくさん経験して大人にならにゃな」
人生ってのはそんなもんさ、とまたかかかと笑いを含めながら運転手はひらひらと手を振った。「じゃあな」の合図を受け取って、ヒカルもまたバスの扉を降りて真っ白な世界へと足を踏み入れる。
──次の瞬間、ソライロバスの乗客は一人もいなくなり、ガランとした車内は一気に暖かさを失ったようだった。
「……歳を取ると感傷に浸りたくなるのは困りもんだぁなぁ」
ぽつりと呟かれた言葉にもちろん返答はなく、ただ吐息に混じって静かになってしまったバスの中に消えていった。運転手は扉を閉め、ゆっくりとハンドルを右に回すとアクセルを踏んでその場からまた走り出したのだった。
ごぅっ────、風が唸った。
のろのろと顔を上げてみれば、若緑色をしたいつものバスが止まるところだった。
(バ、ス……?)
ユメコはぼうっとしながらも携帯に目をやり、いつも乗るバスで間違いはないと確認する。
なかば夢心地のままバスに乗ると、運転手に定期を見せぐるりと車内を見渡した。
ユメコの足が自然と速くなる。「ユメコ、おはよー」と何人かの大学の友達に声をかけられても気付かずに、ユメコはただ一点を目指していた。
───一番後ろの窓際へ。
見間違いでもなく、夢でもなく、色素の薄い茶色の髪を陽に透かせながら彼はいた。本当に。窓枠に肘をかけて頬杖をつきながら、いたのだ。
「……ヒカル?」
ユメコは立ったまま聞いていた。触れたら消えてしまう幻かもしれないと思ったから。
けれどそれは夢でも幻でもなくただ現実で、彼は窓の外を向いていた視線を戻してユメコを見ると、やわらかく微笑んだ。
ヒカルの手が伸び、呆然とするユメコを座らせる。そして、ユメコ自身でも無意識に伝っていた涙を長い指で拭うと、やっと口を開いた。
「おはよう、ユメコ」
新しい一日の始まりだった。
ソライロバスは夢のバス。
現実から逃れたい人を乗せるために、どこかの街中を走っている。