ソライロバス
沈黙は気まずかったけれど、また外を向いてしまったヒカルにはもっと話しかけづらくて、結局ぼんやりと変わっていくヒカルとは反対側の窓の外を見ていた。
どれくらいそうしていたか分からなかった。沈黙に耐えられなくなったのはユメコのほうで、飽きずに窓の外を見続けているヒカルにもう一度顔を向けると、十秒ほどためらってから口を開いた。
「……ヒカルはなんでこのバスに乗ってるの?」
もう一度、今度はトーンを落として尋ねた。一段低くなった声は、最初のころよりもずっと憂いを帯びて、どこか寂しげだった。その響きにヒカルは顔を向けないながらも声だけを返す
「じゃあ、君はなんでこのバスに乗ったの?」
それは答えではなくて質問だったけれど、無感情ながらも怒りは含んでいない声音にユメコはほっと息を吐く。怒りに触れることに慣れていない──と言うよりはずっと争いごとの類を避けてきていたユメコにとって、誰かの怒りや呆れは恐れるものだったから。
それでも質問された答えには迷う。なにしろ、自分だってなんでこのバスに乗ったのか分からない。気付いたらこのバスにいたのだ。
「分かん、ない……けど、目が合った気がしたの」
誰と、とはヒカルは聞かなかった。このバスには自分しかいない。ならば、ユメコが目が合ったという相手は自分以外にいないだろうから。質問の代わりに沈黙を返したヒカルに、ユメコは言葉を続けた。
「あたしは多分、ヒカルを追ったの。そしたら、このバスの中にいた」
「……別に、ただ沈んだ顔が気になって目についただけだ」
「沈んだ……そんな顔してた?」
ヒカルは驚いたユメコの声に反応したのか、ようやく外から視線を外して自分から振り返った。そして頷く。
「それなのに、知り合いに会えばすぐに笑顔になる。笑いたくもないのに、どうして笑うのか不思議だった」
「だって! ……だって、そうでもしなきゃ離れてっちゃうから……あたしはもう誰かに嫌われたくないの。ひとりになるのは、嫌だから」
「──笑顔でいなきゃ、誰かに合わせなくちゃ離れていく相手は本当に友達?」
ヒカルの言葉はユメコを絶句させた。バスの運転手は聞こえないふりをしてくれているのだろうか、黙ったままハンドルを切っている。バスはいくぶん緩やかな速度に変わり、それでもすぐに通り過ぎる街中の景色を断定するまでにはいかない。走る音が聞こえ、がたがたと小刻みに揺れるバスの中、ユメコはどくんどくんと脈打つ心臓に手をやって、どうやっても逸らせないヒカルの目を見つめた。
唇がかすかに震え、なにかを紡ぐように動いた。けれど、それは掠れた音でしかなくて、意味を成さない。ヒカルは初めてユメコに向かって手を伸ばし、頬に伝った雫ごと包み込む。一番初めの無感情な、冷たい雰囲気とは打って変わってヒカルのまわりにはやわらかい空気が流れていた。だからユメコは安心して、また涙が溢れ出す。
「ごめん、泣かせるつもりじゃなかった」
ユメコは頬を優しく包み込まれたまま緩慢に首を横に振った。
「ヒカルは……ひとりは怖くないの?」
ユメコの問いかけに、ヒカルは黙って逡巡した。
「……俺は人を避けて、自分からひとりになったから。怖くはないけど、現実からは逃げたくなる。ひとりになりたいと願ったのに、心の奥底では否定してる自分がいて嫌気がさす」
「それが、このバスに乗った理由?」
「さあ……俺も気付いたら乗ってた。このバスのことは運転手に聞いたほうが分かると思うけど?」
ふい、とまた顔を逸らして椅子の背に身体をもたれかける。そのまま視線はまた外に向けると黙ってしまった。ユメコは多分もう何も答えてはくれないだろうヒカルにちらりと視線をやる。それに気付く様子はなく、ユメコは立ち上がっててくてくと誰もいないバスの通路を歩いて運転手のおじさんのそばまで行った。
「嬢じゃん、あんたすごいねぇ」
バスの中にユメコとヒカルしかいないのだから、会話は丸聞こえだ。だから運転手も口を挟まないながらも会話を聞いていたのだろう。かかかと笑ってそう言った。ユメコは曖昧に笑って力なく答える。
「……あんまりしつこいから相手にしてくれたみたい。ねぇ、このバスはどう言うバスなの? なんであたしはこのバスに乗ったの?」
「そりゃ嬢ちゃん、さっきあの子が言っていたろう?」
ユメコはくるりと振り返って、こちらを気にも止めずに外を見ているヒカルを見やってから考える。
「───現実から逃げる、ってこと?」
「まぁそうだな。この空色のバスは普通にはないだろ? どっかに行きたいって願ったら、このソライロバスが感知して客を乗せるのさ。その基準は分からんがね」
ユメコの言葉を肯定しておきながら、いまいち断定しきれていないおじさんの言葉に「ふぅん」とだけ呟く。ガタンとバスが右に曲がった瞬間に身体がぐらついて、反射的にそばにあったつり革を掴んでいた。目の前に広がる景色は、横から見るよりもはっきりと捉えることができたけれど、やっぱりどこを走っているのかよく分からない。でもどこか懐かしくて、記憶の中からそれを探し出そうとじっと目を凝らすユメコにおじさんは少しやわらかくかかっと笑った。
「懐かしいかい?」
「うん。場所は分かんないけど」
「きっとな、嬢ちゃんがいつも見てる景色なんだ。……いつもは何気なく見ていて、見過ごしてしまう景色だから、ただ何となく懐かしいと思うのさ。もう三日は乗ってるあの子も、きっとそんな思いに駆られて外から目が離せないんだよ」
おじさんがくれた答えは、ユメコにとって謎掛けのようでもあった。じゃあ、いま見ているこの景色も本当は現実で見ていたものなのだろうか、と自問してみてもさっぱり記憶の中には残っていない。ヒカルはこの景色に何を思っているのだろう?
「ありがと、おじさん」
「なーに、可愛い嬢ちゃんのためならお安い御用ってもんよ。これから歩く人生の中、立ち止まることなんてそりゃー数えられんほどたくさんあるからな。このバスの中で答えを探せばいいのさ」
おじさんの言葉はすうっとユメコの心の中に染み渡り、なにか温かい灯りを燈してくれたかのようだった。自分よりも一回りどころか二周り以上年上だと思われるおじさんの言葉だからこそ、だったのかもしれない。
そう、そして気付いたことがある。このバスの行き先を、終点を。
「……じゃあ終点は自分で決めるんだね」
おじさんは満足そうに笑って少しだけユメコを見ると、頷いた。そして思う。
(もう少し……もう少しだけ、ここにいたい)
人を信じなくなって、友達を信じられなくなって、笑っていれば離れていかないから争いごとを嫌った。嘘をついて自分を殺して居場所を作っていた自分は滑稽かもしれないけれど、自分にとっては大事なことだったのだ。
(……ヒカルはこんなあたしでも受け入れてくれるかな?)
笑顔の仮面を外すなら、それで得てきたものを失わなければならないのだろうか。その問いにはまだ答えはないけれど、それを実行するまでにはまだ心の中の準備が必要なのかもしれない。