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高校生・恋愛・短編・オリジナル

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ついさっき彼女となった中瀬の頭がおれの顎の下に来る。
周りを見渡すとだれもいない。
よく分からない本能とも好奇心とも庇護欲とも充足感とも危機感ともつかない気持ちに任せて、泣き顔を隠すように小さい頭を抱いた。
腕の中で彼女は相変わらず泣いていて、その理由は分からなかった。
だが、嗚咽交じりの声の中で、謝罪のことばよりも『ありがとう』という言葉が増えていたのが分かった。

こうしておれたちは付き合うことになった。
今にして思えば、よくできた話で納得いかないところもあるが、おれは別に気にしなかった。
正しく言えばとある理由で気を回すことができなくなった。
そのある理由を傍迷惑で、退屈で、おれが大嫌いな、惚気(ノロケ)話にならないように気をつけて説明すると。
まあつまり。

一目惚れし一途に想い続け付き合うことになった可憐で優しくて従順で愛らしい彼女とキャッキャッウフフいちゃいちゃベタベタでれでれするのに必死で他のことはどーでもよくなってしまったからだ。










中学生の中瀬有里のひとコマだ。
彼女は岩陰に生した苔のようにひっそりと毎日を送っていた。
立ち姿はハンガーに制服をかけていると思うくらい痩せていて、手の甲は筋や血管がくっきりと見えるほどだ。日常での動き極端に少ないせいで皺も見つからない制服。
そこから伸びる生気のない首元は、乾いた藁を思わせた。
常に血が通っているとは思えないほど青白い顔をしている。
目は常に俯いていて、そこの見えない暗い井戸を覗き込んでいるようだった。
僅かに出る感情の起伏は木の洞が動いたような印象を相手に与えた。
当然、その声も洞から届くような貧しい声だった。



小学四年の時、彼女の父と母が離婚した。
11月の誕生日で十歳になった年の春だった。
それを機に母の地元に引っ越すことになった。
母の両親、つまり祖父と祖母は母が幼い頃に亡くなっていたので、旧姓に戻すことはなかった。
家族が減り、環境が変わり、彼女は一人でいることが増えたが、心配はいらなかった。
控え目で内気な性格の彼女は元々一人が好きだった。
静かに本を読んだり、料理のレシピを考えたりした。
感情を表に出すのは恥ずかしいというよりも、苦痛だった。
話す言葉は辞書から抜け出したよう抑揚がなく、声は論文を述べるように無表情だった。
だが、そんな彼女に母親は、
「友達はできた?」
とよく訊いた。
両親を早くに亡くしていた彼女の母自身、幼い頃は友達が頼りだったのだ。
母親も仕事に出ていることが多かったから、一人でいると辛いのではないかという配慮からの言葉だった。
しかし、それは中瀬にはプレッシャーに感じた。
友達がたくさんいなければ母を不安にさせてしまう。
そう考え、時計台の秒針を数えるように神経を張り詰め、他人の顔色を窺い、本来の自分からは程遠い、気のきく優等生を努めて過ごした。
中学校に入るまでは何事もなかった。

中学校2年の時、彼女の所属する委員会の先輩が中瀬へ好意を抱いているという噂が立った。
本当だったかもしれない。嘘だったかもしれない。
しかし、彼女に好意を抱いた先輩は、彼女のクラスメイトが好意を寄せる人物でもあった。
そのクラスメイトはクラスの中心人物でもあり、噂を広げるのが上手でもあった。
いじめではなかったかもしれない。
ただ、彼女の周りで何かが少しずつ軋んでいった。
金属が疲労し、点々と赤茶色の錆が浮いていくように少しずつ変わっていった。
グループ学習のときに彼女だけが残ることが多々あった。
席の前から回されたプリントが一枚足りない。
学校行事のたいせつな内容が伝えられない。
体育館から教室へ戻るときにうわばきが見つからない。
掃除が終わると周りの机が少しずつ離れている。
班の意見をまとめるときに自分だけ求められない。
考えすぎといえば考えすぎで、気のせいと言えば気のせいなのかもしれない。
ただ、人の目を過敏なほど気を配っていた彼女を萎縮させるのには十分だった。

それでも僅かな変化と共に毎日学校生活を過ごした。
短いと感じた休み時間は授業の開始が耐えきれないほどになった。
疎ましいと思っていた体重が溶けるように減っていった。
朝起きると鉛の膜が覆っているように気怠さも珍しくなくなった。
ある日、靴を履くために玄関の段差、框に座ったまま立てなくなった。
膝から下の部位が体を支えるものではなく、形だけの陶器になったようだった。
冬休みを2週間後に迎える日だった。

彼女が休んだ終業式の日、東谷が家に学校の大事なプリントを届けにきた。
浅井先生は部活の顧問で割とよく話すんです。小学校が同じだって言ったら頼まれたんで。
浅井という教師は彼女の担任だ。
玄関で対応した母が言うには東谷はそう言っていたらしい。
本当かどうかは知らない。
ちょうどそのときは家で母とチョコレートケーキを焼いていた。
この頃、彼女の母は再婚した。
中瀬が学校にいかなくなったのを機に、彼女の父が申し込んだのだった。
そうしてできた時間を、中瀬の母はできる限り娘に時間を割いた。
東谷はプリントを渡しにきただけだといったが、母が上げた。
ケーキを食べる人が必要だったというのもある。
彼女の母はできたら学校での様子を聞こうという腹積もりだったのかもしれない。
とにかく彼女の母は新しい家となった3LDKのマンションの部屋に東谷を上げた。
普通、年頃の異性の家には不必要なくらい敬遠するものじゃないか。
彼女は思ったが、甘ったるい匂いの廊下を歩く東谷に緊張する様子がなかった。
どちらかというと初めてマンションの部屋入るのを緊張しているようだった。
それを見て彼女も警戒するのが馬鹿らしくなった。
東谷はよく味わっているのか、チョコケーキを角砂糖程度の大きさに切りながら口に運び、そのあとに必ず紅茶を飲んだ。
「こんなかっけー高層マンションに住んでる友達がいるとは知らなかった」
「そんなに甘くないから食べやすい」
「こんな紅茶らしい紅茶飲むの、初めてだ」
そんなどうでもいいことを喋った。
そのときの彼女からすると東谷はよく舌が回る友達だという印象だった。
東谷とは中学に入ってからずっと別のクラスだったが、時折、話をした。
クラスでの事情を知らないため、彼が変に気を使うこともなかった。
東谷は彼女が無反応だろうと、無愛想だろうと構わずに喋った。
そのために、彼女も興味を持って耳を傾けてはいたが、小さな反応しか示さなかった。
元々普段通りの無愛想な性格で接していた。
苦手な相槌を打たなくとも話し、僅かな反応でも感じ取ってくれる東谷との会話は気が楽だった。
「中瀬はよくこうやって親とケーキ作ったりするの?」
一仕事終えたみたいに食後の紅茶を飲む東谷が、中瀬に尋ねた。
「小さい頃はやってたけど、最近また。私も家にいることが多いし、お母さんも前より家にいる時間が多くなった」
中瀬は「家にいる」というところを暗くならないように努めた。
中瀬の母は再婚してから家のいることが多くなった。