海竜王 霆雷5
華梨は、五百年以上続く不毛な争いを気に留めず、全員のお茶の用意を命じて、立ち上がった。のんびりと平穏な時間を過ごすことは大切だ。それも、気の張らないものたちと、雑談でもして過ごすなら、それは喜ばしい。近いうちに、娘は伴侶を選び、戻ってくるだろう。そうしたら、また忙しくなる。それまでの夫婦水入らずの時間を楽しく過ごすのも一興だ。
「どうせなら、時間のあるヤツを呼んだら? 元鎮さんとか端さんは、鍛錬してるぐらいのことだろ? 季迪のじいさんは里帰りしてるし・・・・元礼さんは出かけてたっけ。」
「声かけてくる。でもって、滋養のある甘いものを、三方向から、おまえの口にねじ込んでやるぜ、深雪。」
「弾いてやるぜ、沢さん。」
「深雪、そういうことに力を使うな。」
「おまえ、子どもたちがいないと、途端に子どもみたいなことをする。いい加減に、悪ふざけはやめなさい。」
どう見ていても、仲の良い兄弟たちの会話でしかない。この関係は、現主人の人柄によるものだ。次の主人が、どんな幕僚を召還するかは定かではないが、この関係は難しいだろう。
すっと、人気が引いて、ふうと相国は息を吐く。対面に、丞相はいるが、それ以外は、誰もいない。その丞相も極力、気配を消している。
「少し神経を休めろ。深雪。」
「・・・ああ・・・」
「水晶宮のことは、こちらで対処するから、おまえは、他のほうに集中していなさい。」
「・・・うん・・・・悪い・・・・」
「今更だ。」
全域に張り巡らせていた意識を、ぷつんと切った。それだけでも、負担はかなり楽になる。それまでに押さえていた情報だけは、相国と丞相に報告する。これといって大きな用件はないから、気楽な報告だ。誰かが宮の物品を横流しした、とか、謂れのない体罰を与えているとかいう些細なものだから、相国たちが記憶する程度でいい。
「元礼さんにも伝えて欲しい。」
「そうだな。ヤツの人事評価の良い資料になるだろう。・・・深雪、向こうは元気にしているのか? 」
相国は誰がとかいう言葉は告げない。それだけで、みな、通じているからだ。
「ああ、どうにか体制は整ってきたみたいだ。でも、まあ、いろいろと大変そうではあるよ。」
「仕方あるまい。あれは、それを望んでやったんだ。それぐらいの苦労は覚悟していただろう。・・・おまえが無理しすぎないのなら、私たちも何もないさ。」
公式の場においては、お互い仲が悪いのではないか、と、噂される相国と主人だが、私的な空間になると、途端に、相国が過保護になるのが、丞相にはおかしくて、つい笑ってしまう。身体を休ませたいと思うから、相国は、深雪の身体を凭れさせているのだ。それを見ている面々は、相変わらず、相国は過保護だと苦笑する。
「ひとりで無理するんじゃないぞ、深雪。」
「わかってるよ、孤雲さんは、俺を甘やかしすぎる。」
「私は、おまえ以外に、こんなに甘やかしたいとは思わないから、教育係に選定だけはしないでくれ。」
「・・・・一番似合ってると思うんだけどなあ・・・・」
「・・・勘弁してくれ。・・・頤に頼め。こいつも、いい教育係になるはずだ。」
黙って、肩を震わせていたら、いきなり、嫌な役を押し付けられた。こっちだって、この主人以外に仕えるなんて、御免蒙りたい。
「おいおい、私は水晶宮の最高位の行政官だぞ。なぜ、次期様の教育係まで、せねばならんのだ? 」
「それなら、私だって、そうだよ、頤。」
「わかってるよ。ふたりとも、そんな役は指名しない。俺の代の執政官でいてもらわないと、俺が困るじゃないか。・・・でも、次期も人間だ。だから、相談にはのってやってほしい。」
現主人の言葉に、ふたりは、真剣に、「承知いたしました、主人殿。」 と、公式の言葉で応じた。それは、どのような場合であっても、命じられたことは遂行するという、ふたりの意思の顕れだ。ようやく話が一段落した頃に、左右の将軍が、空から舞い降りてくる。
「よおう、深雪。俺に、亀ゼリーを捻じ込まれたいんだってな? 」
陽気な左滋将軍 紀雲林が、東屋の中へ飛び込んでくる。
「いや、冬虫夏草ゼリーだよな? 深雪。」
続いて、右滋将軍 韋海溶も同じようにやってきた。
「誰が、そんな不味くさいものを食うかぁ? 味見できるもんなら、やってみろよっっ。」
売り言葉には買い言葉で、深雪も太刀打ちする。そこに、蓮貴妃が茶を、華梨と衛将軍が甘いものを、運んできて、東屋は俄かの茶話会の場所として賑わった。
午後の長閑な茶話会の時間が過ぎて、主人夫婦は、部屋に引き取った。午睡というには、少し遅い時間だが、主人は寝台に横になる。
「なんだか、あっという間だったな。」
「そうですか? まだまだ、これからですよ、背の君。」
夫の頭を膝に乗せて、妻は微笑む。娘が伴侶を選ぶ時期が来た。それまで、無事に、ここを維持できた。それは、ある種の達成感を、深雪に感じさせてくれる。即位して、年若くて頼りないと言われ続けて、それでも、何の落ち度もなく、無事に竜族の本拠地を維持した。ただの死にかけた人間だった自分が、竜になって、それだけのことができたのが不思議なぐらいだ。
「あなた様は、私が望むもの全てを叶えてくださいますね。」
「そう? でも、やっぱり、ここで午睡しているというのが、俺の限界だ。もう少し、体力があればよかったのに。」
「いいえ、充分でございます。・・・あなた様が午睡をなさる理由は、みな、承知しておりますれば、どうか気になさらないでくださいまし。」
遠くにいる現主人の友人のことが気にかかって、そちらに意識を跳ばしている所為であることは、皆、知っていて見ぬふりをしている。先年、それを酷使して、しばらく起き上がれなかったが、それからは、力は加減しているものの、さすがに、遠方を覗くのは骨が折れる。今は平穏で、問題は生じないから、現主人も、それを続けている。それとは別に、この広大な水晶宮の全域にも意識を跳ばしているから、いつもより体力的に辛くなる。だからこそ、衛将軍や蓮貴妃が、苦言を呈して食事や休息を充分に取らせようとしているのだ。
「かなり落ち着いたみたいだよ。」
「そうですか。それはよろしゅうございました。・・・背の君、どうか、少し目を閉じてください。」
「ああ、おやすみ。」
「おやすみなさいませ。」
・・・・もうすぐ、黄龍が二匹となります。そうすれば、あなた様のご苦労も軽減されますから。どうか、無理をなさいませんように、背の君。・・・・
すぐに寝息となった夫の頬を撫でながら、妻は優しく微笑む。神仙界最強の自分よりも強い夫は、強いばかりではない。惜しみなく家族に愛情を注いでくれる。修行に、東西南北の竜王宮に出した息子たちのことも、それとなく、意識を跳ばして眺めているし、娘のことも、ちゃんと見ている。
「月夜のデートをしていた。たぶん、美愛は、あの青年を選ぶんだろう。」