海竜王 霆雷5
妻の言葉に、軽く頭を下げて、夫は、クスリと笑った。見た目には、妻が強い家庭に見られがちだが、実際は、穏やかに夫が我侭をして、妻が、それを甘やかしているというような夫婦である。妻のほうも、そういうことになるだろうと、内心ではわかっていたものの、たまには、興が乗って出かけてくれるかもしれないという程度のお願いだったから、無理強いはしない。茶器を手にしたまま、遠くの景色を眺めている夫は、ぼんやりとしているようにしか見えない。竜族のお歴々たちも、そう見ていて、「ぼぉーっと、空ばかり見ているから、あのように頼りなくなるのだ。」 とか、陰口を叩かれている。だが、実際は、そうではない。はっと意識を戻して、夫は、妻に向かって、「衛将軍と蓮貴妃が参ります。」 と、姿も見えないうちに答えた。実際は、このように、意識を周囲に張り巡らせている。それが、竜独特の神通力ではなく、夫自身が備えている特別な能力によるものだから、事実を知っているものしか、それを理解できない。
「何事でしょう? 」
「宮自体に、何も起こっていませんから、それほど緊急ではないと思われますよ、あなた様。」
それだけ告げて、また、ぼんやりと空を見上げている。ここのところ、その姿態でいることが多いので、妻は気にしない。どうせ、大したことではないだろうと、自分も喉を潤すことにした。
慌しく、衛将軍の劉と、蓮貴妃が、夫の予告通り走りこんできた。
「主人殿に申し上げます。先程、白竜王様より報告のあった件について、言上したきことがございます。どうか、お聞き届けください。」
主人夫婦の面前で、ふたりが膝を付いて叩頭する。慌てた様子のふたりに、主人夫婦も向き合った。
「何事ですか? 衛将軍。我が上の休息を脅かすほどの事件でもございましたか。」
水晶宮の女主人が、その様子に立ち上がる。だが、主人のほうは、その陣容に、少し考えて頬を歪めた。たぶん、このふたりは、その報告を今、聞いたのだろう。だからこその、この陣容だ。
「まあ、お待ちください、あなた様。たぶん、ふたりが参ったのは、次期のことでしょう。そうではありませんか? 蓮貴妃。」
もう一方である蓮貴妃に、主人は問いかけると、「ご推察の通りにございます。」 と、蓮貴妃も頷く。それでは、公式でなくてもよいだろう、と、主人は、傍に控えている女官たちを下がらせてから、口を開いた。
「美愛のことだろ? 沢さん、蓮貴妃。何か問題でもあるのか? 」
もちろん、女官たちが下がれば、劉も蓮貴妃も砕けた物言いになる。公式には優雅な物言いをしている水晶宮の主人だが、私的には、ざっくばらんなものに変わる。
「おまえ、ちゃんと報告は受けたんだろうな? 深雪。」
「華梨、あなたは、報告を受けて、その態度なのですか? 」
ふたりして、やいのやいのと、報告をちゃんと受けたかどうか確認してくる。もちろん、報告は受けたし、白竜王直筆の報告書も貰っている。それらを読んで、夫婦ふたりして、「ようやく、興味が持てたらしい。」 と、喜んだだけだ。
「もちろん、美愛が人間界に滞在するということは聞き及んでおりますよ、蓮貴妃。」
「では、場所は? 滞在場所については? 」
「人間の青年のところだと聞いている。名前は、月灘彰哉だったと思うけど、それが何か? 」
極東の外れにいる人間の住居へ滞在することになった、という報告と、その人間についての簡単な調査結果は知らされている。別に、これといって、問題点はなかった。
「ふふふふ・・・・背の君と同じ極東の方というのが、私くしには、嬉しい誤算でございました。」
「おいおい、華梨。別に、日本人だって言っても、共通点はないぞ。そういや、その青年も特別な能力はあるらしいけどね。」
いちゃいちゃと夫婦ふたりで笑っているのは、普段なら微笑ましい光景なのだが、それどころではない。「待て。」 と、劉が、そのふたりを遮った。
「あのな、男一人の住居に、美愛が住むなんて、どう考えても問題だろうがっっ。」
「そうです。」
どうやら、ふたりは、男女がひとつの家に住むということに心配があるらしい。なにせ、このふたりは、生まれた美愛の世話をしていたから、気分的には親に近いものがある。だから、そういう貞操観念のないことが心配だと慌てているらしい。
「ふたりとも、よく考えなよ? 美愛だよ? 押し倒されたら、確実に叩き殺すことができるのに、何が心配? 」
神仙界最強と謳われる黄龍が、ただの人間に押し負けるはずがない。もし、そういう既成事実が出来たとしたら、それは、美愛が受け入れたということである。
「ほほほほほ・・・・『水晶宮の銀白竜』の娘が、そこに居座るということは、何かが美愛の琴線に触れたということです。疚しいことなどあろうばずがありません。だいたい、美愛は、背の君と同じく、他のものの心が見通せるのです。そういう考えのものならば、即刻、退去しております。」
主人は、竜の神通力ではない特別な能力を持っている。それを受け継いだ娘は、その父親と同じ能力を駆使できる。竜族最強の黄龍と同等の強さを持つと噂され、『水晶宮の銀白竜』というふたつ名まで冠せられている現水晶宮の主人の娘が、ただの興味で滞在することはない。たぶん、娘は見つけたのだろう。ただ、その確信に至らないから、確かめるために滞在するのだ。黄龍が相手を選ぶのは、一般的にいう一目惚れではあるのだが、それを、どうやって受け入れるかは、それぞれの黄龍に拠る。自分のように攫って隠すほどの激情に駆られるものもいれば、自分の母のように何十年も付き合った後に決めた場合もある。だから、それまでは、娘のやりようを見守っているしかないのだ。
「ですが、華梨。婚前交渉などというものは・・・」
「あ、俺、華梨に誘われたよ。」
納得のいかない蓮貴妃が言い募れば、のほほんと水晶宮の主人である深雪が言い返す。
「まあ、懐かしいことを、背の君。・・・蓮貴妃、私くし、背の君を攫った際に添い寝をしておりました。そうしないと、背の君は泣かれるばかりで寝てくださいませんでしたもの。」
「ああ、そういえば、そうだったね。よくよく考えたら、俺も華梨のところで、ふたりで過ごしていたのだから、今の美愛と状況は変わらない。」
「でも契ってはくださいませんでしたわ。」
「・・・そりゃ・・・あの状況ではさ。」
七百年近い昔の話を思い浮かべて、夫婦は苦笑する。相手の青年が、どういう健康状態かはわからないが、自分たちほど異常ではないだろうと思っている。人間としての命数が尽きかけていた主人は、華梨に見初められたお陰で、どうにか人間としての命数を使いきって満足できる幕引きができたからだ。だから、契るとかいう以前の問題だった。見初めた頃は、まだ、それができたかもしれないが、深雪が、そこまでの恋情を華梨に感じていなかった。
「あなたたちのことは、この際、かまいません。問題は、美愛のことです。」
いろいろと問い質したいことはあるが、過去のことは後回しだとばかりに、蓮貴妃は言い募る。もし、勘違いだったら、洒落にもならないから心配するのだ。