ドッペルゲンガー
「久人……」
見開かれた雅浩の目には、体をくの字に折り曲げ、腹部を赤く染めた久人が映った。彼の目から、久人はゆっくりと消えていった。
「あ……あ…………ひさ、久人君!」
久人の横に、京子は膝をついた。
「なんで、なんで自分を……」
「……ぶんが…………」
人に聞かせるようではなく、おのれにだけ聞かせるようなかすれた声が聞こえた。
「自分が……嫌だったから…………。自分の感情さえ操れないなんて……そんな……自分が、嫌になって、嫌いになって……」
「そんな……」
大きく息を吐き、久人は続けた。
「行って……。雅浩を……」
「……うん」
よろめきながらも立ち上がり、京子は雅浩に張り付いたガムテープをはがし始めた。
「いで!」
「何よこんくらい。今まで久人君いじめてた報いだと思いなさい!」
手の甲をさすりながら、雅浩はゆるゆると立ち上がった。
「久人君、立てる? 肩貸すよ」
「僕は……いい……。ほら……、昇降口、閉まっちゃうから」
「よくないよ! 久人君を置いてなんか……」
「みーつけたー」
どこか調子の外れた女子の声が、教室の中に入ってきた。
「だ、誰だあれ」
「絵那……。高屋絵那? な、なんでここに」
「えな?」
振り向いた京子の顔が驚きの色一色になっているのを見て、雅浩は入り口に立ちふさがる女生徒の名を繰り返した。
「陰湿ないじめにあってるって噂されてた子。顔だけは知ってたから……ひっ!」
立ち上がっていた京子が、短く鋭い悲鳴と共に一瞬大きく震えた。
「田野雅浩って、その人だよね? なんでこんな夜に学校にいるのかなー? まあ手間が省けていいや」
歩みを進めた絵那の制服は、朱に染まっていた。右手に、カッターが力強く握り締められている。一番色が濃いのは、その右手とカッターだった。
「何を……何したの、あなた。誰を……」
「いじめっ子をねー、やっつけたの。たくさん刺したの。ざくざくざくざく。面白いんだよ。刺すたびに声が出るの! でもね、あんまり刺したから壊れちゃったの」
「まさか、こいつ……」
「殺したんだ。この子をいじめてたって子を。学校で。ついさっき」
口を覆った京子の両手は、がくがく震えていた。
「いじめっ子はねー、あたしがみーんなやっつけてあげるの。その人もいじめっ子でしょ? あたしがやっつけてあげるから」
絵那は机のせいでジグザグに進むものの、雅浩を目指していた。ゆがんだ笑顔を貼り付けたまま。
「ふふ……。いじめっ子はみんな消えちまえ!」
叫びと共に絵那は突然カッターを逆手に持ち替え振り上げた。そしてあと数歩の距離を駆け、刃先を雅浩の胸に定め――
「ぐ、うっ」
髪の毛が雅浩の鼻先に触れた。彼はカッターではなく京子の小さな体当りで、半歩下がっただけだった。
「何ー? あなた。あなたもいじめっ子だったの?」
絵那がカッターを引き抜くと、京子は膝をついて横に倒れた。雅浩もそれに続くように、腹を押さえうめき声を漏らし倒れた。
「まーいいか。雅浩っていじめっ子も死んじゃったみたいだし。他にも残ってないかなー、いじめっ子……」
暗闇に紛れ込んでいたためか、絵那は久人に気付いた様子もなく、すっと踵を返してふらふらと教室を後にした。
「いじめっ子ー、いないー? ふふ……」
声が遠ざかると、床に伏していた三つのうち一つの体が、起き上がった。雅浩だ。彼の腹部には何の外傷もない。絵那を騙すため、一芝居うったのだ。
「京子……。おい、大丈夫……なわけねえよ、何言ってんだ俺!」
悔しげに叫ぶと、雅浩は京子を仰向けにした。彼女は人形のように力なく転がった。
「京…………くっそあの女!」
京子の制服の半分以上が、絵那の右手と同じ色に染まっていた。雅浩は京子の口元に手をかざし、ほっと息を吐いた。息はまだあるようだ。
雅浩が後ろを見ると、そこには久人が倒れていた。同じく腹部を真っ赤に染めて。
「……っ、救急車呼ばないと」
立ち上がって携帯を取り出そうとしたまさにその時、まるで念が届いたように、サイレンの音が聞こえ始めた。