ドッペルゲンガー
最初に目覚めたのは、聴覚だった。朝なんだろうか、すぐ近くで鳥の声が聞こえる。それより少し小さく、葉の触れ合う音。まぶたが温かい。入ってくる光の強さにすぐ慣れることができず、目を薄く開けたり閉じたりして、やっと目の前の景色を見ることができた。学校のによく似た蛍光灯。でも、天井はきれいだ。
首を左に向ける。薄いピンク色のカーテンが見えた。自分の寝ているベッドのものではなく、隣のもののようだった。そこまで見て、久人はここは病院なんだと気付いた。
右側が明るい。窓があるんだ。そう思って、今度は右に首を向けた。大きな窓が視界に入った瞬間、その下で何かが動いた。すぐ視線を下に落とす。久人の目が小さな驚きで丸くなった。
「…………ひろ」
寝起きのせいか、声がうまく出ない。小さく咳払いしてから、もう一度声をかけた。
「雅浩?」
身じろぎしてから、雅浩がゆっくりと目を開けた。久人の声は小さかったので、そのおかげとは言いがたい。
「ねえ、雅浩。なんでここで寝てるの?」
「ん…………ああ!?」
飛び起きた勢いが強すぎたらしく、雅浩は座っていた丸椅子と一緒に背中から大きく倒れた。ところどころぶつけたらしく、カタツムリ並みの遅さで、窓を支えに立ち上がった。
「ってえ~……。な、なんで俺お前んとこで寝てたんだ? 京子のほうに行ったはずじゃ……」
「ばっかじゃない? あんた。大体あたしんとこに来た時点ですっごく眠そうだったし、こっちに来ようと思って結局寝ちゃったんじゃない。あんたのその記憶は夢ん中よ!」
「げっ、起きてたのかよ!」
見計らったようにカーテンを開けて、京子が姿を現した。この様子だと、京子はしばらく前に目を覚ましていたらしい。自分と同じようにベッドにいる京子を見て、久人は目を丸くした。
「京子さん……。え、どうして京子さんが」
「あ、そっか、久人君わかんないんだよね」
京子は一人で、久人が倒れた後の事を事細かに話した。その間、雅浩は椅子を二つのベッドの間の、足元近くまで持って行き、そこに座りながら時折肩やら背中やらをさすっていた。
「あの彼女が……。結局、どうなっちゃったんでしょうね、彼女。見つかったんでしょうか」
「見つかった」
突然割って入った低い声に、三人とも肩を震わせた。ほとんど音を立てない部屋のドアが閉められる。そのドアの前には、久人たちの学校の制服を着た、長身の男がいた。
「あ、あなたは……」
「もしかして、三年生の有名な」
「例の不思議三年生か?」
京子にそう聞いた雅浩は、逆に叱られてしまった。
「ちょっ、雅浩! そういうこと本人の前で言うもんじゃないでしょ!」
「構わん。俺の名前を知らないやつはそう呼んでるらしいしな」
二人のやり取りが面白かったのか、その三年生は小さく笑い、三人の輪の中に入ってきた。
「テレビはつくか?」
「えーっと……、あ、これカード式だぜ。カード買わないと」
「大丈夫だ。買う暇などなかっただろうからな」
立ち上がろうとする雅浩を制して、三年生は棚の上のテレビにカードを差し込んだ。
「え、あ、ご、ごめんなさい! カードなんて買っていただいて」
「このくらいなんともないさ。それより……あった」
手動でチャンネルを操作していた三年生の手が止まった。事件のニュースのようだ。女性キャスターが、黙々と事件内容を読み上げている。
『逮捕されたのは、この高校に通っていた女子学生です。彼女は同級生の女子生徒を、カッターで何度も刺し、殺害したのち……』
「これが彼女だ」
顔写真こそ公開されてはいないものの、その逮捕された女子生徒の行動は、昨日京子を刺した高屋絵那、その人のものだった。
「捕まった……んですか」
ぽつりとこぼした久人に、三年生は答えた。
「ああ。駆けつけた救急隊員と学校の警備員が、カッターを持って歩いてる高屋を見つけてな。隊員の一人に刺しかかろうとしたのを止めて、警備員が警察を呼んだんだ」
「な、なんでそんなこと知ってるんですか」
「見てたからさ」
雅浩の質問に、三年生はさらりと答えた。
『刺されたのは生徒三人です。最初に刺された入村澄子さんは、失血によるショックで死亡。その後に刺された高野京子さんと木村久人さんは重傷でしたが、現在は病院で意識を回復したようです』
「うわ、あたしの名前出てる。変な感じ~……」
「それじゃ、俺は失礼しよう。手土産も何も持ってないしな」
「あの!」
三人に背を向けた男子を止めたのは、久人の声だった。顔だけ久人に向けた彼に、久人は疑問だったことを聞いた。
「あなたは……わかってたんですか? 僕がやることを」
「あんなに思いつめた顔をしていればわかる。鬼気迫るものがあったからな」
「……なら、どうして止めなかったんですか?」
「人が決めたことには干渉しない。それが俺のルールだからだ。そいつがどんなことをしようとな」
初めて久人がこの三年生に会ったときの、あの笑みを見せて、彼は部屋を出て行った。
「なーんか雰囲気が違うよなー、あの人……。あ、そうそう、救急の人来たときにさ、あの人たち『君が雅浩君だね』って言ってきたんだぜ。俺名前教えてねえのに」
「え、あんた通報してないんでしょ?」
「でも隊員の人は、通報して来た人は雅浩だって名乗ったって言ってたんだ」
「ドッペルゲンガーね」
「ちげーよ」
二人の会話に、久人は小さく笑い声を漏らした。