ドッペルゲンガー
「雅浩、今日俺親に早く帰って来いって言われてさあ。先に帰るわ」
「ああ、別にいいぜ。なんだよ、お叱りか?」
「かもしんねえ。んじゃな」
友人が出て行って、誰もいなくなった部室で、雅浩は一人バッグに荷物を詰めていた。太陽ももだいぶ落ちて、空の半分以上は紺色に染まっている。
「さてと、戸締まりっと」
窓の鍵を確認して、電気も消す。部室の鍵穴に鍵をさして、回す。その時に鳴る音が巨大化したようだった。
バランスを崩した雅浩の体は、ドアに倒れ掛かって、そのまま倒れこんだ。鉄の棒が、静かな校庭に音を響かせ、落ち、転がった。
「おい……。誰かいるのか?」
廊下を見回していた久人を呼んだのは、おずおずとした雅浩の声だった。
「いるよ」
「っ! その声……、久人か!?」
「当たり」
「おい、てめえっ……」
沈黙が言葉をかき消したようだった。
「なんだ……これ」
「僕は力がないからね。すまないけど、寝てる間にそうさせてもらった」
わずかな月明かりと電灯しか差し込まない、しかし完全な暗闇ではない教室で、久人は雅浩の横に立った。机を並べた上に、ガムテープで動きを封じられた雅浩の横に。
「楽しかった? まあ、楽しくなけりゃやらないよね」
「なんのことだよ……」
「気付かないほど習慣になってたんだ。僕のことこそこそ言うのが、日記を書いたり風呂に入ったりするのと、おんなじくらい」
久人の目は、怒ってはいなかった。むしろ怒りさえも超えたのか、それはあまりにも静かだった。
「僕だってバカじゃないから、こんなことしてただで済むとは思ってない。今だって自覚してる。バカな事やってるって」
「じゃ、じゃあなんで」
「もう止められないんだよ。天井に向けて投げたボールが、空中で止まる? でも、僕も悪いよ。誰にも相談しなかったんだから。でも元凶は変わらない。お前がいたから」
片手に持っていたハサミを、久人は目の前に掲げた。
「おま……」
「言葉で言うほうが心に傷を負いやすい。でもその言葉を考えるのは面倒だ。僕は自分の手で、仕返しがしたい。だからこうする」
振り上げられたハサミの先は、勢いよく机に突き刺さった。そのすぐ脇には、雅浩の頬があった。
「……どうしたんだい? 僕がそんなに怖い? ただハサミを持っただけで。でもこれはお前が今までやったことの報いだ。僕がやらなくてもいずれは受ける報いを、僕が今早めただけだ。それぐらいわかってやってるんだと思ってたよ」
楽しい。威張っていたやつが、今はおびえている。そんな感情に染まりつつも、久人にはまだ冷静な心があった。その心で、もう自分は壊れてしまったんだと、諦めていた。
「どうする? どこを最初に刺してほしい?」
再び掲げたハサミの取っ手を、久人は両手で掴んだ。雅浩は、ただその凶器を凝視するだけだった。
「……面倒だから、すぐ心臓刺しちゃおうか」
狂気から来た楽しさから、久人の口が不気味な弧をえがいた時だった。
「ひさ、と……くん?」
静かゆえに響いた、か細い声。殺人者になろうとしている男子ははゆっくりと、被害者になろうとしている男子は即座に教室のドアを見た。
「何……? 何やってるの? ねえ、久人君だよね。それ、何? そこにいるの、誰?」
「きょ、京子! 俺だ!」
嘘だとでも言いたげに、呆然の上に薄く笑みを貼り付けた京子の表情は、雅浩の裏返る寸前の声で、我に返ったようになった。
「まさひろ? 雅浩なの、そこにいるの。ねえ、久人君! 何……。どうして……」
「ごめん……京子さん。もう止められないんだ」
「やだ、やめて! 違うよ、久人君はそんなことする人じゃない!」
「ううん、そんなことない。京子さん、僕みたいな大人しくて、真面目そうで、そういう人間こそ、こういうことをする可能性を秘めてるんだよ。嫌なことも全部、背負ってしまうから。だから人に知られないで、溜まったものが静かに爆発する。そして……こうなるんだ」
久人の手に、力がこもった。
「久人君、お願いやめて! あたし久人君がこんなことするの見たくない! 雅浩が殺されるのも見たくない!」
「……京子さん、雅浩のこと、かばうんだ」
振り向かずに放たれた声に、京子は久人の背を見つめた。
「…………久人君、確かに、あたしは雅浩が嫌いだよ。久人君のことずっといじめてて。でも、死んでほしいなんて思ってない! 今に報いが来るって、雅浩にも言ってた。でも、それは死じゃないよ!」
久人の手から力が抜けていった。それを抑えようと再びこめるが、その手は震え始めていた。
「だめだよ久人君……こんな一時的な感情で、こんなことしちゃ。絶対後悔する。わかるでしょ?」
「……わかるさ……。でも……」
「お願い……久人君」
止めたい。でももうどうしようもない。自分さえコントロールできない自分がいやだ。自分が――
「終わらせないと」
そうすれば解放される。
頭の上まで勢いよく振り上がったハサミが、一瞬光った。
「久人君だめ!」
京子の叫びも虚しく、刃物は対象を突き刺した。