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ドッペルゲンガー

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「雅浩! あんたまた何やってんの!」
 怒声と共に、雑誌の切り抜きが大量に散った。名を呼ばれた男子は、今まさに配ろうとしていたプリントの束で顔を半分隠し、目だけを見せている。
「ちえー、来るの早いってんだよ……。そういちいちヒステリックになるなっての。カルシウム取れよ」
「あんたに言われたくない! 何回言ったらわかんの? いい加減やめろよ、こんなエロ本切って机にご丁寧に敷き詰めるの!」
「だってあいつなんも言わねえし。慣れてんだろ」
「んなわけあるか! 人よりちょっと喋んないからって、調子にのんじゃない!」
 周りで会話を楽しんでいる生徒とは違う、強い視線を感じたのだろう。雅浩をにらむ女子が、怒りの表情を解いて教室の入り口に顔を向けた。棒の様につっ立っている男子が、そこにいた。
「あ……、久人君」
「京子さん、おはよう」
「あ、お、おはよう」
 いつも通りに挨拶され、京子はしどろもどろな返事をしてしまった。久人はそれを気にするわけでもなく、自分の席へと歩いていく。
「あ、久人君ごめん! 雅浩がまた変なことやらかして。今片付けさせるから」
「は? え、何俺が片付けんの?」
「当たり前でしょ! ほら、さっさと拾って! プリントはあたしが配るから」
 久人の机に残っていた切り抜きを床に払うと、京子はずかずかと雅浩に近づきプリントをひったくった。雅浩の言い訳など聞く耳持たぬというように、プリントを数え、配り始めている。
「ったく……」
 雅浩は仕方なく、久人の机の周りに落ちた、大量の切り抜きを手でかき集め始めた。当の久人は、席に座らずに雅浩を見下ろしている。
「……このやろ」
 雅浩が何かをしでかし、京子に叱られ、後始末をやらされる。そういう時久人は、必ず雅浩を見ていた。もう顔を見ずともわかる。いつも申し訳なさそうな、哀れむような顔をしているのだ。怒った顔は見たことがない。それが、雅浩を余計いら立たせていた。

 限界だった。
 はた目には大丈夫に見えいているだろう。自分でもそう見せようとしている。でも、本当はもうぎりぎりだ。
 さっきみたいな、目に見える嫌がらせのほうがましだった。今となってはそれに加え、こそこそと影で何かを言うようになった。他のクラスメイトには聞こえないよう、自分だけに聞こえるように。ある時は自分に見せ付けるように、みんなの前で自分のことをバカにするようなことを言う。みんなは気付いていない。それはただの大きな独り言に聞こえているから。
 そういう嫌なことは、全部心にとどめて消化してきた。だけど、消し去りきれなかった分があったんだろう。どんどんそれが溜まって、溢れそうになっている。表面張力で膨らんだ水みたいに、パンパンに膨れ上がった風船みたいに。
 そして今日、その限界を超えたのに気付いた。何もあの切り抜きの敷詰めが、今までで一番ショックを受けたからってわけじゃない。何かの引き金になるのは、大抵ささいなことなんだから。
 あふれ出た負の感情が、自分の体を操っているように感じる。すること全てが、意味はないとわかっている復讐のために動いているような感触。
 この負の勢いは止まらない。静かに、確実に、仕返しの計画が練りあがっていく。人間、極端な感情でいっぱいになっているときは、気味の悪いほど頭が働くみたいだ。
「あ、見て! あの人じゃない? 三年生で一番有名なのって」
 ――知ってる。ふと聞こえた女子の声に、久人は心の中で呟いた。ノリがいいとか、なんでもリーダー的存在になるとか、そういう意味で有名な人ではない。ぱっと見は暗い。でも人を惹きつける何かがあるんだろう、学年を問わず色々なことに関して、相談に乗ってくれる人らしい。
 腕時計を見る。まだチャイムは鳴らない。あと二分ぐらいというところだ。
 その時、久人は目の前に気配を感じた。見ると、男子生徒が立っている。なぜ人の前で止まるのだろうと一瞬不思議に思ったが、久人の寄りかかっている後ろには、窓があった。どうやら景色を見ているらしい。
「やるのか」
 低い声が突然降ってきた。久人が驚いて顔を上げると、窓の外を見ているはずの目は、こちらを向いていた。起きたばかりのようなぼさぼさの髪を、首元で小さく結わえている。それなりに体格もよく、長身のその男子は、久人も何度か見たことのある、ついさっき女子が話していた三年生だった。
「やるんだな」
 今の久人にとって、『やる』というのは仕返しのことに他ならなかった。もしかしたら違う意味で聞いていたのかもしれないが、焦った久人にそのことを考える余裕はなかった。
「……そうか、今日やるのか」
 心臓が跳ね上がった。おそらく顔も、今の心情を隠せていないだろう。何も言えないまま、久人はただ目を見張っていた。
 気付かないうちに、変化があった。目の前の三年生が、笑っていた。口角が小さく上がっただけの笑みだった。
 三年生は外に目を戻すと、その目を伏せながら廊下を歩き始めた。一部始終を見ていたのだろうか、女子組が廊下の向かい側から小走りよって来た。
「久人君、なんか話したの?」
「い、いや……。ただ外見てただけみたい」
 視界から消えるまで、久人は三年生の背中を見つめていた。

「……久人君」
「何ですか?」
 放課後、教室に残り自主勉強をしていた久人に話しかけたのは、京子だった。
「今さらだけど、ごめんね、雅浩のこと。何回言っても懲りてないみたいで」
「いや、大丈夫です。もう慣れましたから」
 嘘だ。今日やるんだ、仕返しを。もう自分では止められないところまで来てしまっている。
「あたし、もうちょっとガツンと言ってやったほうがいいのかな。これじゃあ一年中この調子だもんね」
「京子さん、僕は本当に大丈夫ですから。いつもかばってくれて、感謝してます」
 自分がこれからしようとすることは、その感謝を踏みにじるかもしれない。
「かばうぐらいしかできなくてごめんね。あたしももうちょっとがんばってみるから」
「ありがとうございます。でも、無理とかはしないで下さい。僕なんてまだ軽いほうですよ。噂かもしれないけど、もっとひどいことされてる人がいるって聞いたんです」
「ああ、あたしもある。あれは女子同士だったかな。身体的な嫌がらせだとか。あーやだやだ、女子は陰険でやだねえ」
 大げさに肩をすくめ、京子はカバンを取った。
「遅くまでご苦労だね、久人君。勉強も休みいれないとだめだぞ」
「そうですね。じゃあ」
「また明日ー。バイバイ」
 足音が消えてから、久人は窓から校庭を見た。運動部は、まだ部活をしている。
「……今日は家に帰れないかもね」
 夕日が、教室中を自身の色に染め始めた。
作品名:ドッペルゲンガー 作家名:透水