ほら穴の彼
手早く着替えを済ませ、れいは松木にあいさつをすると、コンビニを後にした。日が長くなっているため、まだ太陽は夕日には程遠い。ふと、れいは自分がコンビニに来た道とは反対側の、岩壁を見た。
はるか上空までそびえる岩壁は、この近くの山々の一部だろう。道が開けているとはいえ、ここ一帯が山沿いであることに変わりはない。その岩壁のところどころに、大きな穴が開いている。最初、れいは防空壕かと思ったが、こんな山奥まで空襲が来るだろうか、という考えが浮かび、防空壕案は消えた。なら、やはり自然に開いたものなのだろうか。それともずっと昔、あの岩壁から何かが採れていたのか。どちらにしろ、あの穴全てには、立ち入り禁止のテープが貼られている。
その岩壁の奥には、目を見張るような豪邸が、なぜかある。大富豪の家なのは間違いないが、なぜこんなへんぴな所に建てるのか、れいにはわからなかった。街で成功した企業の社長だとか、そういう話は聞いた事があるが。
「……でもまあ、覗くぐらいなら怒られないよね」
自身に言い聞かせるように呟くと、れいは穴へと足を運んだ。豪邸を覗く気など毛頭もない。この辺りに民家は少なく、車道があるぐらいだ。その車道だって、一日に通る車の数はたかが知れている。
それでもれいが、少し人目を気にしたのは、立ち入り禁止だということもあるが、実はその穴が、れいの父が言っていた“あそこ”なのだ。
「大体さ」
手入れされていない茂みを大またで歩きながら、れいはひとりごちた。
「誰も見て、ないんだったら、いないのと同じ、じゃんか。でも、やっぱ自分の目で、確かめないと、もやもやしていやだからなあ……っと」
れいは、おかしなところで探究心が湧く少女だった。
「ふうっ……。どの穴なのかな、浮浪者がいるっていうの……」
穴に入れないよう、「立入禁止」のテープが、穴をふさぐように十字に貼ってある。それは全ての穴に施されていた。れいははじから順に見ていったが、見ただけで何かがわかるというわけではない。
「手がかりもなんにもありゃしない……。……ん?」
ふと、木のかげに隠れるようにある穴に、目がいった。縦二メートル、横も二メートルほどといったところか。そこにももちろんテープが貼ってあったが、そのテープが少しよじれているのだ。何かをひっかけたか、一度テープの端を外して、粘着部分がくっついてしまって、無理やりはがしたような。それには、他の場所のテープにはある、真新しさがなかった。
「……本当なのかな」
れいの心に、わずかな恐怖が生まれた。
ここまできて、れいが引き返すはずがない。身をかがめると、彼女はテープの下の隙間から、穴の中に侵入した。
「うっわ、真っ暗……。懐中電灯持って来ればよかった」
意外と、外からの光は奥には届いていなかった。数歩進むと、そこは闇だ。足を上げずに、滑らせるようにしてゆっくりと歩く。
真正面を向いていた目に、何かぼんやりとしたものが見えたような気がした。その時だった。
「きゃ、あ!」
突如、足場が消えた。いや、そこは小さな崖になっていたのだ。全て黒で塗りつぶされていたため、全くわからなかった。
「いっ!……たあ…………」
高さはそんなになかったようで、すぐにれいはしりもちをつくことになった。それでも予期せぬできごとに、痛みは光のある場所にいるときよりじわじわ伝わり、心臓も忙しく動いている。そんなれいに追い討ちをかけるように、声がした。
「誰だ」
「っ!」
れいは悲鳴をあげたが、それは声にならなかった。引きつったような音だけが、のどを通って口から漏れた。
「またお前らか? 何を言われようと、俺はここから出ないからな」
何やら相手は誤解しているらしい。多分れいを、この暗闇の住人をここから追い出そうとしている連中と、間違えているのだろう。
「あ、あのっ……。あたし違います」
「……? 女か。今度は色仕掛けか何かか?」
「っ……! ち、違います! あたしそういう者じゃありません! 偶然入ってきただけなんです!」
「偶然もくそもあるか。ここに俺がいるってことは、この辺に住んでいるんなら百も承知のはずだ」
明らかに相手は、さっさとれいに消えて欲しがっているようだった。
「そうですけど……。本当かどうか確かめたくて」
「好奇心か? ならさっさと消えろ。言っておくが、俺はてこでもここを退かんからな」
棘だらけの男の声だった。れいは少しショックを受けながらも、低い崖をよじ登った。上り終えてから、また後ろを振り返った。
「あ、あの! 何か必要なものありますか?」
「消えろ」
必死の叫びも、情のない一言に一蹴された。れいは悲しげな目を暗闇に向け、早足で洞窟を出た。