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ほら穴の彼

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「……すいませーん」
「?」
 暗闇の中で、男は顔を上げた。しかしれいには何も見えない。とりあえず自分がいることを知らせて、れいは崖を降りた。
「あの……ここ、はしごかけてもいいですか? いちいち登るの大変なんで」
「…………お前、ここに通う気か?」
 馬鹿な女だとでも言いたげな口調だった。
「本っ当に邪魔なら、やめますけど……。だって大変でしょう? 食料とかどうしてるんです? お金あります?」
「食料なら十分すぎるほど持ち込んである」
「でもずっと住むんなら尽きるでしょう? 何かあったら、買ってきますよ」
「浮浪者如きに金を出すのか?」
「浮浪者だからってわけじゃなくて、ただ心配なんです。何持ってるんですか? 今は」
 返事はなかった。いや、言葉による返事がなかっただけで、暗闇から物体が一つ、投げてよこされた。調度足元に落ちたそれを、れいは拾い上げて外からの光にかざした。
「え……、か、カロリーメィ……」
 あまりの衝撃に、れいの言葉は急激に上がったかと思うと、一気に落ち込んだ。食べ続けると病気になる食品でも見たように、顔をしかめながら。
「持ち込んであるって……、まさかこればっかりですか?」
「馬鹿言え」
 相変わらず跳ねつけるような調子だったが、れいはとりあえず安心した。
「俺がそのチーズ味だけ持ち込んでるとでも思ったか? 他の味も全部あるから、十分なんだよ」
 れいは、つい持っていた箱を取り落とした。この浮浪者、故意にボケているのか。
「あのですね……。ぜんっぜん十分じゃないです! こんな栄養補助食品ばっか食べてたら、いくら男の人だからって持ちません! 買ってきてよかった」
「何をだ」
「食べ物に決まってるじゃないですか。おにぎりとサンドイッチ、それとお茶です。あ、見えないんで懐中電灯持ってっていいですか?」
「……勝手にしろ」
 飽きれたようだったが、棘はなかった。れいは片手にコンビニ袋、片手に小さめの懐中電灯を持つと、明かりをつけて奥に進んだ。十歩ほど進んだところで、足が見えた。ぼろぼろのスニーカーだ。その足を照らすように、れいは懐中電灯を地面に置き、しゃがんで袋をあさった。
「えっと……」
 おにぎりを一つ取り出したところで、電灯を取って味を確認した。また同じ位置に戻して、れいは男に話しかけた。
「シーチキンマヨネーズ、食べられます?」
「味はなんでもいい」
 またそっけない返事だった。れいは気にせず、包装をとって、まだ暗闇に染まる相手の胸元辺りに、腕を伸ばした。思いのほか、手の海苔の感触は、ゆっくりと消えた。
「お茶も開けますね」
 海苔が噛み切られる歯切れのいい音が、洞窟に響いた。れいがペットボトルを開ける音も、妙に大きく聞こえた。
「えっと……」
 開けたボトルをどこに置こうかと少し見回したとき、ふとボトルが握られた。ついでその指もれいの手に触れたので、驚いて手を緩めた。指は少し冷たかった。
「み、見えるんですか?」
「とっくに暗闇に慣れているからな。放していい。見えないんだろう」
「はい」
 ボトルが地面に置かれる小さな音と一緒に、また海苔が裂かれる音もした。
「えーとあとは……、鮭ありますよ。あとサンドイッチはハムとレタスのやつと、あと……、あ、またシーチキンだ。よく見て買ってくればよかった……」
「おい」
「はい?」
 れいはまた袋をあさっていたので、顔を上げて返事をした。相手は見えないので、声のしたほうを見て。
「お前、浮浪者の、しかも男のそばにいて怖くないのか?」
「いえ、別に……」
 れいは、突き刺さる視線が男のものでなく、目の前に広がる黒そのものの視線であるような気がした。
「……でも、言われてみると少し怖いかもしれませんね」
 男の言葉のおかげで急速に広がり始めた恐怖感を、れいは作り笑顔で己からも隠した。
「ふん」
 その取ってつけたような笑みが、気に食わなかったらしい。一つ鼻で無愛想に笑うと、れいの足元を照らしていた光が消えた。
「あ」
 れい自身飽きれるような、間の抜けた声だった。今まであった光が消えた直後が、一番見えにくくなる時だ。サンドイッチの包装を取ろうとしていたれいは、そのままの格好で動きを止めた。
「俗に言う浮浪者だったら、こうしたあと何をする?」
 れいは答えなかった。自分が動けなくなったのではなく、周りの空気が、れいを包んだまま固まってしまったようだった。だがそれは、相手も同じようだった。自分のものでなく、相手の動く気配ぐらいあってもいいはずなのに、この空間はまったくの無音だ。
「……あの、あなたの立場がよけい悪くなります」
「うまく逃げたな」
 男は、また鼻で笑った。それを合図に、再び明かりが灯った。
「わざわざ開けなくてもいい。俺は寝たきり患者じゃないんだ。そこに放っておけ」
「あ、そうですね。じゃあ、置いておきます」
 コンビニの袋を男の足の近くに置くと、ばらばらに散らばった箱を、三、四個れいは拾った。
「それは俺の食料だぞ」
「でも、余計ですよ。少しはまともなもの食べてください。これは預かっておきますから」
「泥棒が」
「預かるって言ったじゃないですか」
 男はあとは何も言わなかった。そのやりとりがれいは少しおもしろくて、笑顔になった。


「和風にイタリアンにゴマ、ありますけど、どれがいいですか?」
「そんなものどれでもいい」
「そういう性格はあまり好かれませんよ。ちゃんと選んでください」
「……ゴマ」
 さっさとしろと言わんばかりの勢いに負けず、れいは言った。男はそれに呆れたように答える。
「サンドイッチに野菜あることはありますけど、少ないですからね。はい、どうぞ。割り箸割ってありますよ」
 れいは、今回男のためにサラダを買ってきたのだ。初めて食べ物を渡しに、このほら穴に来るようになってから、もう二週間以上が経った。もちろん毎日通っているわけではないが、休日は必ず寄っている。
「ここに来るまで、見つかったりしないのか?」
「ありませんよ。車が増えるのはもう少し経ってからだし、人もあんまりいませんから」
 答えてから、れいはふと気付いて男に質問した。
「あの、心配してるんですか? あたしのこと」
「お前が出入りしてるのが見つかったら、噂が本当だってばれて、ここを追われるかもしれないからな」
 間髪入れず、跳ねつけるように男は言った。
「そ、うですね……。じゃあ、これからは今以上に気をつけて来ます!」
「…………」
 黙りこんだ男から、れいは唖然としているような雰囲気を受けた。
「あの、どうしたんですか?」
「お前な、普通はもうやめるとか言うだろう。なんで逆に来たがるんだ?」
「だって、心配だからって言ったじゃないですか。あ、あれ全部食べました? なくなってたら、預かってた分少しお返ししますけど」
「……変わったやつだ」
 男は呟き、サラダを食べ始めた。
作品名:ほら穴の彼 作家名:透水