邪剣伝説
光の人型――天使の純白二翼とは相反する、漆黒の二翼。
それはあたかも、古に女神と激闘を繰り広げた…………邪神の如く。
「形状名称(コードネーム)《神殺しの剣(ディバイン)》――『邪剣』よ、来いッッッッッ!」
七剣八刀が納められた剣はモミジの翼から漆黒を受け取ると、数倍近くにまで延ばされる。全長にしてモミジの身の丈二倍。片刃であり、形状も黒塗りである事も同等。一方で、剣から発せられる『始原の気配』は、傍に居るだけで発狂しするほどに荒々しい。
超高々密度で圧縮された魔力で形成された、一振りの剣。森羅万象の可能性を内包したその剣は、他の可能性を無尽蔵な情報量で上書きし断ち切る。
範囲を広げていた白化の浸食が、邪剣より発せられる魔力の奔流に寄ってせき止められた。無効化能力を上回る量の魔力が場に溢れだしているのだ。
「――――ッツ。正攻法の出し方じゃねぇから、結構厳しいか」
両手の内で暴れ出そうとする剣の力を握力と精神力で捩じ伏せる。一寸たりとも気を抜けば、邪剣は形を保てず内包した魔力が無秩序に解放され、担い手たるモミジは『可能性の波』に飲み込まれて原子の欠片すら残さず消し飛ぶ。
「持って五分か――最短三分か。それだけありゃぁ、お釣りがくるか」
漆黒を纏ったモミジは、純白の天使を見据えた。
「いくぞ天使…………ッ」
剣を振るう直前、モミジの中で古い記憶が去来した。
――――一瞬にして全てを奪われた。
奪われた物は家族。
奪った物は異形。
そして、異形を葬り去ったのは、剣士。身の丈はある黒い剣を携え、異形を一刀のもとに両断した。
己と、異形が吐き出した血に濡れ、呆けたように見つめ続けた。
心に浮かぶのは、絶望であり羨望。
大切な物を失った理不尽への悲しみと。
その理不尽を叩き潰した力への憧れ。
問いかける聞いた。
「この世に正義はあるの?」
その問いはどこからやってきたのだろうか。
年端もいかぬ者が抱いた幻想への諦めか。
幻想を諦めきれない未練か。
もしくは、自らを助けてくれた剣士に、未練が魅せた幻想を望んだのか。
剣士は答えた。
「正義は無い」と。
再び聞いた。
「じゃあ、この世は悪だけなの?」
再び答える。
「違うな。この世は自我(エゴ)と悪だけだ」
三度聞いた。
「じゃあ、救いは無いの?」
三度答えた。
「だったら、君が救いになればいい」
剣士は携えていた剣を地面に突き立てた。
「求める暇があるなら、君自身が求めになれ。希望を求めるなら、希望になって見せろ」
剣士はその剣を二度と取ることなく、言った。
「力を求めるならば、柄を握れ」
子供は、眼の前に突き刺さる剣の柄を、握り締めた。
「再び悪に屈したくなければ、剣を引き抜け」
胸のなかには誓いが固められていた。
「剣の使い方ぐらいは教えてあげよう。ただその先、君がどう歩いていくかは君自身が決めろ」
子供は、己の背を超える漆黒の剣を、万力を込めて、引き抜いた。
この瞬間、子供はそれまで自分が暮らしていた『常識』と決別した。
「その剣は君の物だ。君の自我(エゴ)を貫くための、剣だ」
剣士は笑った。
愉快と憐れみと、歓喜と懺悔を合わせた様な、そのどれでもない笑みを浮かべた。
「君の名前は?」
「…………クロツカ――――」
後述。
反逆者コクエモミジによるフィアース教団支部破壊は怪我人を多数発生したが、奇跡的にも死傷者は皆無だった。ただその数時間後、フィアースの郊外にて大規模な地盤沈下が発生。こちらも幸いにして犠牲者は無かった。現場付近で反逆者と交戦した騎士の証言からして、こちらも反逆者が起こした可能性が高い。地盤沈下の底からは女神と邪神の戦乱期に建設されたとされる遺跡が残っており、鋭意捜査中である。
なお、反逆者襲撃時より支部担当の司教が行方不明となっており、フィアースで起こっていた連続失踪事件に巻き込まれたのではないかとの見解で、こちらも鋭意捜索中である。
終幕
目が覚めるというよりは、睡眠の合間に訪れた僅かな覚醒。
――――夢を見た。
『彼女』は微笑んだ。『彼女』という『存在』はこの世にどこにもなく、笑みを浮かべるべき『顔』すら存在していない。だが、確かに『彼女』は笑った。
――――嗚呼、何と甘美な夢だったのだろう。
『彼女』を認識できる者がいれば、慈しみに溢れた顔を覗く事が出来ただろう。
抱かれていたのは、純粋な思い。穢れのない願望。偽りなき本心。
『彼女(じぶん)』と『彼』以外の誰も存在しえない、至高の世界。邪魔する者も、祝福する者もいない。絶望もなければ希望もない。殺す者も殺される者も、奪う者も奪われる者も居ない。
あるのはただ、愛し合う者(じぶんとかれ)だけ。
『彼女』の心の内を読み取ることが出来ていれば、破滅的な狂気に恐れ慄いていてだろう。
美しいはずの思いは、あまりにも純粋すぎる。
どこまでもどこまでも果てない地平線の彼方、さらにその先まで塗り潰すような純白。
勘の良い者なら気づくだろう。
気づいてしまった事を後悔するだろう。
穢れ無き思いとはつまり、穢れを許さない。
思いの『外』に存在するありとあらゆるものを拒絶する。
故に、『彼女』の『思い』は酷く美しく、酷く醜い。
けれど彼女は気が付かない。気づこうとする概念がない。
あるのは想いだけ。
愛しき人を恋焦がれ、待ち続ける揺ぎ無い願望。
だから待ち続けるのだ。
『彼』が来ないという未来(かのうせい)を『彼女』は持ちえない。
「――――また起きていたのかい?」
不意に、声が聞こえた。青年のモノだ。
肉体という『器』は存在しない。無論、聴覚器官などあるはずもなく、だというのに己に向けられた声を『彼女』は聞きとり、視覚などなくとも男の姿を捉える。
『夢』に出てくる『彼』よりも幾分若い。落ち着きを払った知性ある顔立ちに、柔らかい物腰。浮かんでいるのは柔和な――だが仮面の様な笑み。
「どうしたんだい?」
――――彼の…………夢を見た。
予感なのだろう、と『彼女』は確信した。
――――彼が、戻ってくる。
喜びに身が震える。震える『躰』は無くとも『彼女』が歓喜している事は男にも伝わったようだ。青年は呆れとも諦めともとれる溜息を小さく吐いた。
「そうか…………そろそろ『彼』が来るのか」
口調はどこまでも穏やかだが、含まれる感情は温かみとは程遠い。
純粋な憎しみと嫉妬。
器のない『彼女』の感情を青年が読み取ったのと同じく、青年の感情を器のない『彼女』が読み取る。肉体という概念から解き放たれているがゆえに、より緻密に、深く。
――――…………死にたいか?
酷く淡々とした問い。『彼女』の殺気を感じさせない殺意が場を埋め尽くす。
直接ぶつけらる感情の波。常人なら発狂しかねないところを、青年はやれやれと肩をすくめるだけで受け流した。
彼女にとっての人の区分は、『彼女と彼(じぶんたち)』と『それ以外』だけだ。青年は彼女にとっては『それ以外』に部類される、道端の小石の様な存在。
小石が『彼』に憎しみを向けるとはつまり、『彼女』に憎しみを向けるのと同意義。
彼女の怒りを『理解』はできる。