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この手にぬくもりを

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 人の心が読めるのでないとしたら、この人は自分と同じことを考えている。そのことに動揺した。そして、それだけのことが、とても嬉しかった。だが、その胸の高鳴りも長くは続かなかった。
「大越生徒監殿の娘さんなら、この自分の立場も理解してくれると思って、結婚する気になりました」
 結局それなのだ。喜久子の気持ちはみるみる冷めていき、底の方から言いようのない恐れが沸き上がってくる。
「……困ります」
「え?」
 理解していた。理解できると思った。大越生徒監の娘、ではなくたって。
 それなのに、どうして、ここでそのことを引き合いに出すのだろう。
 一番理由にして欲しくないことだというのに。
「父の娘であることを期待されても、それこそ……私には自信がありません」
 震える声を必死に抑えてそこまで言うと、喜久子は駆け出した。これ以上そばにいれば、涙目になっていることに気付かれそうだった。幸い追ってくる気配もなく、喜久子は板垣を残したまま、一人で家に戻ると、奥の部屋に駆け込んだ。
 くやしかった。胸をときめかせたりして損をした。結局、最初に思っていた通りだったのだ。しかも、自分では自信がないと言って、こちらにはありもしないものを期待するなんて、卑怯だ。
 くやしさで溢れそうになる涙を堪えていると、玄関先で来客の物音がした。
 これできっとおしまいだ。「大越生徒監の娘」はあんなことを言って逃げ出したりしないに決まっている。板垣も分かっただろう、喜久子が、彼が思っているような人間ではないと。それでいい、と思っているはずなのに、胸が小さく悲鳴を上げた。
 先程の場面が頭の中を駆け巡る。あそこで、どうして素直に笑って「私も自信がないです」と言えなかったのだろう。そうすれば、もっと違う風に振る舞えただろうに。いつも、後になってから思う。もっと気の利いたことを言えば良かったとか、ああすれば良かったのにとか。
「喜久子、板垣さまがお見えですよ。あなたにお話があるそうよ」
 母の声が襖越しに聞こえる。
「会いたくない」
「喜久子!」
 襖を開けて声をあげる母を尻目に、縁側へ出る。傾きかけた日射しが真っ直ぐに入ってきて、居心地が良いとは言えなかったが構わず腰を下ろした。
 そういえば、初めて会ったのはここだった。その時は、顔もろくに見ていなかったら、印象も何もないのだが、何かを思い出そうとしてみる。
 自分でも、どうしてそんなことをしているのか、分からなかった。ただ、胸だけが逸っていた。このままではいけないと思いつつも、どうしていいか分からない。
 会いたくないのに、会っていた時が恋しい。変な感情だった。
 これで、おしまいなのに。彼は喜久子に呆れて、期待はずれだったとがっかりして、「この話はなかったことに」と言って帰る。最初から自分でそう想定していたはずだ。
 再度、母の呼ぶ声が聞こえる。そして、廊下を歩いてくる音。
 今さら、何を話すと言うのだろう。
「私は、もう話すことなんて」
 そういって振り返ると、母の前に歩いてきているのは、板垣だった。
 どうしてこの人は、いつも望んでいないときに平然と現れるのだろう。そう呪いながら、ともかく膝をただして頭を下げる。彼が傍らに腰掛けたので、喜久子は緊張して、目眩がしそうになった。
「正式にお願いする前に、きちんと、あなたの口から聞いておきたいと思いました」
 喜久子が黙っていると、板垣は続けた。
「私はあなたと結婚したいと思っています。でも、もしあなたが気がすすまないようでしたら、はっきり、そうおっしゃって下さい」 
 母が後ろで青くなっているのが、喜久子にも分かった。
 なんて非常識な人なのだろう。自分で断りにくいから、あくまでこちらから断らせるつもりなのだろうか。それに、この人は先程のことを聞いていたのだろうか。それとも、なかったつもりにでもしているのか。結婚したいのは「大越生徒監の娘」なのだろうに。喜久子が眉をひそめると、彼は微笑した。
「世間体は気にしなくて結構です。私には過ぎた人なので、とこちらが一方的にお断りする、と大沼さんにも言いますから」
 喜久子は返事が出来なかった。
 「気がすすまない」のだろうか。この人と結婚するのが? 自分が断ることが? いや違う。結果的に、この人に断られることが、嫌なのだ。
 気がすすまないのではない。でも、承諾するにも心の中で何かが引っかかっている。それとも、これを「気がすすまない」というのだろうか。
 頭の中で自問するばかりで、時が過ぎていく。
「先程のことでしたら、気になさらないで下さい。失礼なことを言いました。……その大越生徒監殿の娘さんというのは、きっかけで」
 板垣は頭をかきながら、暫く考え込む様子を見せた後、言葉を選ぶように続けた。
「これは、黙っておこうと思っていたのですが」
 そう前置きして、板垣は前方の庭先の垣根を示した。
「初めてここにお邪魔したときに、あそこから、あなたを見ました」
 喜久子は頷いた。
「ええ、本を拾って頂きました」
 どの辺りから見ていたのか、と聞いていいのか分からなかったので、黙っている。
「それで、その時に……この人ならと」
 なぜだか板垣の顔を見ることが出来ず、喜久子は彼の手元ばかりを見ていた。彼の手はしきりに組み替えられている。心臓が音をたてて動き、自分が次の言葉を待っているのが分かった。決定的な、何かを。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら