この手にぬくもりを
親が決めた相手と結婚することには、抵抗はない。
大人しくその人の妻になろう。その人を好きになろう。
嫌なのは、それが空回りすることだ。
相手は、後悔しているのではないか。
結婚することにでも、縁談にでもなく、相手が自分であることに不満なのではないか。
根拠は無いけれど、この手の勘は良く当たるものだ。
期待されても困る。喜久子は大越兼吉の娘だが、それは血統上だけのことで、父の記憶はほとんどない。大越中佐の娘であることを理由にされても、素直に喜べない。逆に、重くのしかかってくるものがある。
(私に何を求めるというのだろう。私のどこがいいというのだろう)
彼の並べ立てた理由だけでは、納得できないものがあった。
自分では、決められた相手を受け入れることが当然だと思いながら、相手にそれ以上のことを望んでいる。
板垣征四郎陸軍大尉、三十一歳。今年陸軍大学卒業予定の、エリート将校だ。ずっと独身主義を主張してきたが、このたび撤回する。理由は「大越生徒監の娘さんなら……」。
「あの板垣を還俗させるほどなんて、どんな美女なのかって、仲間内で話題になっているらしいわよ」
情報提供者の麻子が続けた言葉がよみがえる。麻子は数年前に陸軍軍人に嫁いだ、女学校時代からの友人である。
本当にそうなら、今の状況よりはましだろう、と喜久子は思った。仮に喜久子が実際に美人だったとしても、今度は「私の顔だけを見ている」と文句を言うだろう。そんな現実はありえないけれども。しかし、その場合、少なくとも評価の対象は自分自身であるわけだから、理不尽なプレッシャーを感じなくてすむに違いない。
板垣は、一目見て、喜久子が美人でないことに落胆したか、「大越中佐殿にそっくりだ」と心の中で笑ったかの、どちらかに決まっている。或いは両方か。
お父上にそっくり、はすでに慣れ親しんだ、お決まりの社交辞令だ。どうして少しでも、母親似にならなかったのだろうと、美人の母を見て、時々思う。
そんなことを考えながら、習い事の帰り道、最寄りの停車場の横を歩いていると、ちょうど市電が止まった。乗降口から降りてくるのは、カーキ色の陸軍将校姿だ。
今一番見たくない物だ、と心の中で呟く。そして、更に不幸なことに、しっかりと目が合ってしまったその軍服の中身も、今、一番会いたくない人間であった。
喜久子は、一定の距離を保ちながら、板垣大尉の後ろを歩いていた。彼女の家に行くところだという彼と、明らかに家路に向かう途中だった喜久子は、一緒の道を歩かざるを得なくなったのである。
こういう時、気の利いた女の人なら、何か話をするのだろうな、と沈黙の中で喜久子は考えた。何を言っていいのか分からない。しかし、向こうから何か話かけられても困るので、このまま、沈黙のうちに家に着いてくれればいい、と祈っていた。
暫く歩いて、予期せぬ遭遇の動揺が一段落してくると、喜久子は彼の用件が気になり始めた。一体、何の用なのだろう。少し考えて、喜久子の頭が導き出したのは「断りに来たのだ」であった。縁談を本人が直に断りに来る、なんて聞いたことがないが、自分に関しては、ひどい例外だって起こりうるかもしれない。
それならば、最初からはっきり断ればいいのだ。大沼に頼み込まれ、父の威名もあり断りきれなかったのだろうが、独身主義なんて立派な考えを持っているならそれを貫けばいいではないか。
しかし、どうして独身主義なのだろう。
喜久子は、基本的に現在の結婚制度を支持している。生きていくにはそれしかないし、その生き方が正しいと思っている。それは人生の必然的な通過儀式だ。男性にとっても、結婚して家庭を持ち、一家の戸主となり一人前になる、ということは大切なのかと思っていた。それとは全く逆の考えには、少なからず興味を覚えた。
どうせ、もうこれっきりなのだから、聞いてみたいという気持ちがわいてくる。
家に着いてから、母の前ではとてもこんなことは聞けないだろう。しかし、これはたしなみのある女性として男性に聞いてしまってもいいことなのだろうか。
苦しい沈黙の中でやっと見つけた話題だったので、すでに喉まで出かかっていたが、逡巡する。
喜久子は、家までの道のりの中程、小川にかかった橋のたもとで意を決した。
「あの」
前を歩いていた板垣が、足を止めて振り返る。もう引き返せなかった。
「どうしてご結婚なさらないんですか?」
なんと頓珍漢な問いかけだろうと、喜久子は、後にこの言葉を思い出す度に恥ずかしくなった。
板垣が返事に困っているのを見て、喜久子の顔にさっと熱が集まった。今日破談になるという可能性があるにせよ、今のところ、この人は自分と結婚する予定なのだ。そのような相手に言う言葉としては不適切だった。
よく、「言葉が足りない」と言われることを思い出す。口に出す前には、しっかりと考えているのだ。ただ、それがいざという時に全て出てこないだけで。
「いえ、独身主義を通していらっしゃると伺いましたので」
しどろもどろになりながらも何とか補足すると、板垣は合点がいった様子で、少し表情を和らげた。
「誰に聞いたんですか」
ああ、噂好きか、探り屋かと思われたに違いない、と喜久子は俯いてしまった。
板垣は、黙って傍らの欄干に手を添え、遠くを見ているようだった。話を振ったことを喜久子が心底後悔し始めたとき、彼は呟いた。
「自信がなかったんです」
それは、喜久子の胸の小さな傷に、じんわりと流れ込んでくるような台詞だった。
「昔から、頭も要領もよくないものでね」
軍人になったからには、精一杯、国のために尽くしたい。板垣は強くそう思っていた。そのための大きな目標がある。自分はそれに一生を捧げようと思う。それだけでも目一杯なのに、さらに結婚して、家庭を持つという責任と両立できる自信がなかった。自分の進む道では、家庭など顧みられなくなるように思えた。「軍務に専念したいから、結婚はしない」などと周囲には言っていたが、結婚して立派に軍務を果たしている同僚はたくさんいるのだ。要は自分の問題だった。「夫」というものになることも、ひいては人の親になることも、自分にはつとまらないと思っていた。
そんなことを言って、板垣は頭を掻いた。
「自信……」
喜久子は、彼の言葉に足元をすくわれるようだった。自分のどこに、結婚して立派にやっていける自信があるだろうか。それで、どうして結婚をしたい、と憧れているのだろう。
結婚をすれば、良いのだと思っていた。世間の大半が当然のようにしていることなのだから、自分にも普通に訪れるものだと考えていたが、自信があるかといえば、ない。
すべて相手次第、相手が何とかしてくれて、相手を思ってさえいればいいと、安易に想像していた自分に気がついた。
喜久子は、震える唇を開く。
「では、今は自信がおありなのですか?」
「いや。でも、多くの人がほとんど実践していることなのだから、なんとかなるのではと……一人でする物でもないしね」
それを聞いて、喜久子は心臓が跳ね上がり、顔が火照るのが分かった。