この手にぬくもりを
板垣が喜久子を最初に見たのは、大越家を訪問する前だった。垣根の横を通り過ぎたとき、その隙間から誰かがいるのが見えた。縁側に腰掛け、本を読んでいる、明るい色の絣を着た、少女。覗き見はいけないと思いつつ、「彼女がそうだろうか」という考えが頭をよぎった。
そして、帰路につく時。
そこへ差し掛かると、先刻とはうってかわって、話し声と、バタバタと足音が聞こえてきた。続いて、目の前の垣根に小振りな本が刺さるように飛び出してきた。それに驚く間もなく、庭から悲鳴が上がった。思わず、垣根の内をのぞき込む。
それは、何でもない光景なのかもしれなかった。姉が弟を心配し、いたわる、日常的な行為。
しかし板垣は、少女の仕種と表情に、目が離せなかった。
心の空白に、しっくり合うピースが飛び込んで来たような感覚に襲われた。
我に返って、慌てて声をかけ、本をとり、手渡す。それだけの行為に頭が一杯になり、帰り道に何を考えていたのか、自分でもよく覚えていなかった。
「あの時、あなたとなら、と」
独身主義も、自信のなさも吹き飛ばされて、ただ、結婚するならこの人だという感情が沸き上がる。不安も、自信のなさも乗り越えていける、乗り越えさせてくれるのではないか。それは単なる直感にすぎない。しかし板垣は、その直感を信じた。今までにない、この強い感情こそが、全ての証だと思った。
この感情は、何というのだろう。
言葉に出来ないもどかしさに、板垣は自分の訥弁を呪う。ただ、彼女が気にしていることは、いくつか察しがいったので、何とか解消したいと思った。
「答えになっていないでしょうか」
「答え?」
自分は彼に何か答えを求めていただろうか、と喜久子は首を傾げる。
実際、彼女はそれどころではなかった。
こういうことを面と向かって言われる人間は、一体この国にどの位いるのだろう。
こんなことを言われて、はいと言ってしまわない人なんて、いるのだろうか。
そう考えながら、喉の奥から上がってくる感情を、必死に押さえていた。
自分のひねくれ加減と、現金さには困ったものだ。
いろいろ理屈を並べたところで、結局喜久子は、たった一つのことを求めていただけだったのだ。
あなたがよいと言ってもらえること。
建前やきっかけがどうであれ、本質がそこにあることを、答えとして示して欲しかったのだ。喜久子もはっきりとは自覚していなかったその願望が、どうして彼には分かったのだろうか。
上擦った声が出ないように呼吸を整えているうちに、板垣が先に口を開いた。
「今日はもう帰ります。ここまで押しかけてしまい、失礼しました」
立ち上がって一礼した板垣に、喜久子は慌てて頭を下げる。
「こちらこそ大変失礼いたしました」
そこで一つ息を呑んで、喜久子は心に決めた。
「……よろしくお願いします」
「ありがとう」
この時、喜久子は彼の顔を見なかった。自分がどのような表情をしているか分からなくて、顔が上げられないでいた。
しかし、ずっと後になって、喜久子がこの日のことを思い出すとき、自然と彼の表情が浮かんで来るのだった。そのゆったりとした笑顔は、春風のようだ、と喜久子は思った。
この日から、喜久子はずっとこの笑顔に支えられていくことになった。
大正五年、初夏のことである。