この手にぬくもりを
喜久子は、一刻ほど前から、階段の登り降りを繰り返していた。
二階から数段降りてはまた戻り、半分まで降りたところで数段上がるが、また思い直して降りていく。階下に降りきるや否や、一気に二階まで駆け上がってしまうのもこれで二度目だ。
馬鹿なことをしていると、自分でも思う。だが、どうしても踏ん切りがつかない。誰かが背中を押してくれるか、腕を引っ張ってくれれば、何の苦もなく進めることも分かっている。そのくらい、何でもないことなのだ。しかし、今は誰も発破をかけてはくれない。喜久子は今、一人だった。一人だといつもこうだ。何でもないことなのに、避けては通れないことなのに、なぜか踏ん切りがつかない。
今、階下には、喜久子の婚約者になったという人が来ている。以前は来訪も知らされず、母だけが彼に会ったのだが、二度目の今日は、会いたければ会っても良い……いや、会えと、母に言われていた。最初から待ちかまえて迎えるのも落ち着かなかったので、暫くしてから顔を見せる事にし、二階に上がったものの、もうどれくらいたってしまったろうか。いくらなんでも、そろそろ出て行かなくてはと思うのだが、先程からずっとこんな調子である。
こんな事なら、見せ物めいていようが最初からいれば良かった、と後悔してから、喜久子はようやく覚悟を決める。駆け上がってしまいたくなる衝動を抑えながら、一段一段ゆっくりと階段を降りていった。
音を立てないように慎重に廊下を進み、客間の前で立ち止まる。襖越しに、母の声が聞こえた。喜久子は入る時機をはかるために、話の内容が聞き取れるまで近くに寄って、耳を澄ませた。
「……ですが、取り柄といいましたら、丈夫で健康なくらいで」
どうせ手先も性格も不器用だし、気も利かないし、器量だって良くはないですよ、と胸の内でぼやいてから、入り口の前で膝をついた。この言葉への相手の返事を遮ってしまおうと、声をかける。
「失礼します」
思ったよりずっと、よそ行きの作り声が出てしまったので、一瞬慌てる。
襖を開け、深々と礼をした時、上座に膝を崩さずに坐っている軍服姿が、視界に入った。どきどきしながら、ゆっくりと顔を上げたとき、喜久子はその人を初めて見た。
不慮の事故だったとはいえ、以前に一度見ているはずだった。とはいえ、あの時は顔を見たかさえ定かではない。
彼は、事前に見た写真と同じ造形をしていたが、随分と印象が違った。その写真は、良く撮れているのだろう、写っているのは精巧な作り物のようだった。しかし、今目の前にいるのは、普通に血の通った男性だ。写真から受けた、奇妙な近づき難さはない。そして、縁談の相手と会っている、という実感もなかった。ただの町中で見かける、感じのいい方の部類に入る将校さん、だった。
眺めていたのはほんの一瞬だった。相手も自分のことを見ているのが分かって、喜久子はすぐに視線をはずす。
沈黙の後の、彼の反応の予測は、容易だった。でもきっと、その反応は表には出さない、ということも。
喜久子は、彼が膝の上で組み直す指を何気なく眺めた。時々動くその手と、カーキ色の上着の袖口から覗く真っ白いシャツから、目を離せなかった。母の紹介の声も、相手の応対もどこか上の空で聞いていたが、頭の中はめまぐるしく回転し、彼が自分が相手だと言うことに失望しているだろうと、早くも勝手に決めつけていた。もしかしたら、既に実際に会う前から。
そして、彼はこう言ったのである。
「安心いたしました。……私には過分なお話とも存じますが、感謝いたします。……丈夫で健康でありさえすれば、とそれだけは思っておりましたので」
喜久子は、はっと視線を上げた。彼の、やわらかい微笑みを浮かべた顔が、一瞬胸の底をさっと撫でていく感じがしたが、すぐに頭から下りてきた他の考えにかき消される。
予測はしていたけれども、もっと言いようがあるのではないか。いや、こんなこと言わなくても良いではないか。喜久子は完全に冷静な判断を失う。
もちろん、健康が大事なのは、分かる。分かるけれども、自分にとっては褒め言葉などではない。本当にそれしか取り柄がないと、にこやかに肯定されたことも気に障ったが、それよりも嫌だったのは、きっとこの人は心の底では辞退したがっているだろうと、察しがついたことだった。根拠があったわけではないが、そう思った。
こんな事を考える余地のない、もっと上手いことを言ってくれればいいのに、と喜久子は勝手に思い、全てを相手の責任として棚に上げてしまった。
その後は不機嫌さを顔に出さないように努めてはいたが、どうやら失敗していたらしい。母が無言の咎めのサインを送って来るのが分かった。
しかし、彼と何を話したのかは覚えていない。一度裏を考えてしまうと、全てその通りのような気がしてきて、喜久子は、相手の本心ばかり勝手に分析していた。そして勝手に落ち込み、腹が立ってくる。
対面の席は「つつがなく」終了し、彼が席を立ち、見送りに出た母もいなくなる。部屋で一人になった喜久子は、膝を崩して寝転がる。
なんだかいやだな、と思った。
想像していたのと、違う。
このまま黙って、周囲の作る流れに乗っていれば、あの人と結婚することになるのだろう。
結婚はしたい。
誰かを、好きになってみたい。誰かに、大切に思われたい。
(でも、誰でもいいわけじゃないのに)
こうして、喜久子の板垣に対する第一印象は、あまり良くないもので終わった。実際には、自分自身でそれを勝手に良くない方へ歪めてしまっていたのだが、彼女は、自覚していなかった。
投げ出した足が、向かいの席に敷いてあった座布団に触れる。片づけようと、たぐり寄せて取り上げると、触れたところにまだぬくもりが残っていて、わずかに胸が高鳴った。