小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

この手にぬくもりを

INDEX|6ページ/72ページ|

次のページ前のページ
 

「歌とか詩とかは関係ないのよ。軍人だとか、そういうのも関係ない」
 小さい子供にするように、しかし、やや乱暴に抱きしめられたので、兼二には姉の顔が見えなかった。
「何かあったら、嫌に決まってるじゃない。悲しいに決まってるじゃない」
 普通、姉というのはこういうことはしないんじゃないのだろうか、と兼二は感じていたが、喜久子は昔からこうだった。母親以上に、兼二はこの姉に構われていたと、思う。この年になってこんな事を言われるのは重くて、少しばかり鬱陶しく思ったが、おとなしくしていた。
 ふと、兼二は自分の手の中に歌集がないことに気付き、自分のまわりを探したが、見あたらない。喜久子もそれに気がついたらしく、少し険のある顔つきに戻って、兼二を見る。兼二は慌てて首を振った。
 下に落ちた拍子にどこかに放り投げてしまったかな、と垣根の方まで歩いていくと、垣根の外から声がかかった。
「すみません」
 垣根は兼二の頭の上くらいまでの高さで、外から一人の男が顔を出し、喜久子の歌集を手に掲げて示していた。
「申し訳ありません!」
 喜久子は兼二を押しのけ、慌ただしく走り寄り、本を受け取った。お礼を言って頭を下げると、男は被っていた帽子をちょっと上げて応えて、そのまま去っていく。それを見た兼二は、なんだかぎこちないな、と一瞬思ったが、何がそう思わせたのかは、分からなかった。
 帽子は赤いラインが入ったカーキ色の軍帽だった。きっと陸軍将校だ。
 この庭に面した道は、家から駅に向かう路地である。どこかに通り抜ける道でもないので、彼は家から帰っていった人、ということになる。
「ねえ、今の人、どっちかなあ」
「どっちって?」
 着物の汚れを払って、二人は部屋にあがる。
「家庭教師か、姉さんのお相手か。まあ、両方ってこともあるけど」
「え?」
 指摘されて、喜久子は初めて気がついた。歌集を見知らぬ男性に拾われたことだけで恥ずかしく、そんなことは頭になかったから、相手の顔などろくに見ていない。
 その後、母がやってきて、今日来ていたのは大沼に勧められた縁談の相手だったと聞いたから、いよいよ後悔した。
「ねえ、兼二は見たわよね。どうだった?」
「どうって……」
 兼二は、少し考えてから眉毛と髭があった、とだけ答えた。ぱっと見て特徴的なのがそれぐらいだったからだ。案の定、眉毛があるのは当たり前でしょう、と突っ込まれる。
「あら、兼二、何処で見たの?」
 母は意外そうに尋ねた。庭で垣根越しに会ったことを言うと、どうして庭から声を掛けたりしたのか、と咎められる。
「姉さんの……じゃなくて、僕が教科書を落としたんで、拾ってくれたんだ」
「落とした? 庭の外に?」
 母が不審気に眉を顰めたので、喜久子は慌てて口を挟んだ。
「兼二がイライラして投げたのよ」
 母は、そうなの、とまだ腑に落ちない顔をしていたが、今後気を付けるように注意しただけだった。姉に責任を擦り付けられた兼二はふくれている。
「今日はご挨拶にいらっしゃっただけだったけれど、とてもいい方だったわ。どう、喜久子」
「どうって」
 喜久子にそう振られても、断る理由などない。少し不安はあるが、結婚する、ということには異存はなかった。憧れているし、自分はそういう人生……どこかの軍人さんの所へ嫁ぐという道……を歩むのだという心構えは、しっかり躾けられている。
「ねえ、その人家庭教師はやってくれないって?」
「お願いしてみたんだけど、自分は人に教えるほど優秀ではありませんから、って断られちゃったのよ」
「なんだ。でも、竹下のところの中尉だってそんなに優秀じゃないって言ってたし、いいのに」
 兼二がつまらない、といった風に声をあげると、何を考えてるの、と喜久子に耳を引っ張られた。
「本当に優秀な人は、自分で出来るなんて言わないのよ」

 縁談の相手。
 その夜、喜久子は蒲団の中で長いこと考えていた。
 今まで、霧のように漂っているだけだったものが、一つに集まって形になりつつあるように感じた。自分にも、相手、という対象が出来たのだ。
 まだ、ぼんやりと形になっただけだけれど。喜久子は、昼間、垣根越しに本を渡してくれた人物のことを思いだそうとしたが、駄目だった。もともと、あまり人の顔をしっかり見ない質なのだ。あの時も自分の本ばかりに目をやっていて、相手の顔なんて全然見ていなかった気がする。
 あんな本を読んでいると思われたら、嫌がられるかもしれない。それよりも本を庭の外にまで飛ばすなんて、絶対にはしたないと思われただろう。すべてを兼二のせいにして、無かったことにしてしまいたくなる。
 兼二はやはり軍人になるのだろうか。自分も軍人と結婚するのだし、その方がいいのかもしれない。
そんなことを考えながら、喜久子はいつの間にか夢の中へ引き込まれていった。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら