この手にぬくもりを
十二月一日、巣鴨拘置所へ「最後の面会」に行く。
次があることを望んではいるが、望むべくもないことは分かっている。
板垣は終始穏やかで、にこやかで、喜久子も笑うことが出来た。
しかし、これが最後かもしれない、と思うと、胸の底がざわめいた。
とりとめのない話、これからの話、今までの話。金網越しに見えるのは、家にいた頃と変わらない温顔の夫だった。
何故かとても懐かしかった。どんなに遅くとも、家に帰って来る夫。どんなに遠くへ行っても、いつかは帰ってくる夫。何度寂しい正月を過ごしても、いつかは賑やかな元旦を迎えられると信じていた。
板垣は、戦死することもなく、病気になることもなく、若い頃の約束の通り、喜久子も健康で生きている。
本当なら、喜久子が待ちに待った幸せが来るはずだった。
どこでどう狂ったのだろう。原因があるとしたら、それは喜久子のほうだった。
何も言えず、求めるばかりで、自分のわがままで夫を最低の方法で死なせてしまう。そして、今も何も言えないのだ。
喜久子は、ただ、泣くまいと必死だった。
時間はあっという間に過ぎ、喜久子達は外に出るよう促される。いつもは黙って従う喜久子も、この時ばかりは後ろ髪を引かれる思いで立ち止まった。
看守が喜久子の肩を押す。
名残惜しげに振り返る喜久子に、金網の向こうに佇む板垣が、優しく微笑んだ。喜久子も懸命に笑顔を作る。
板垣は、看守とつながれた手錠の鎖に引かれて、反対側の出口に歩いていく。
今ならまだ間に合うかもしれない。喜久子は夫の顔をじっと見た。何か言うことがあるはずだ。最後なのだから。
喜久子が言葉を喉に詰まらせていると、板垣がゆっくりと首を振って、微笑った。
分かっている、とでもいうように。
「喜久子」
そして、ゆっくりと口を開く。
「……愛しているよ」
その声が聞こえるや否や、喜久子は廊下へ出された。
喜久子は動けなかった。何故か看守も促さず、代わりに廊下の奥を指し示した。
鉄格子越しに、監房へ戻る彼らの後ろ姿が見えた。
最後の背中だ、よく見ておけ、とでも言うように、看守は黙ったままだった。家族たちはそれを噛みしめるように、じっと立ちつくした。
「わ……わたしは」
うまく言葉が紡げなかった。震える声で伝えようとした喜久子を、看守は厳しく制した。声は出すな、ということらしい。
それが、板垣を見た最後だった。
なんて残酷な言葉なのだろう。
胸に深く刺さって、離れない。
そこから次々と溢れてくる気持ちが、行き場を失って体中を駆け巡る。
嬉しい、という激流が、戸惑いや不安を押し流していく。
生きていてよかった、と思える瞬間というのは、今のことを言うのかもしれない。
そんな状況ではないのに。相手のことを思えば、そんなことを考えている場合ではないのに。
たった一言だけで、こんなに幸せを噛み締められる自分に呆れた。
生まれてきてよかったと思う。生きていてよかったと思う。これからもずっと、生きていたいと思う。
この気持ちを失いたくない。
こんなに幸せなのだから。
本当は、言われなくても分かっていた。分かっていなければならなかった。
でも、言葉になると、何倍も大きな力を持つ。
彼はその言葉の力を意図していただろうか。万感の思いを込めて告げた最後の言葉が、喜久子に大きな喜びとこれからの命を与えたことを。
そして、ふと思った。
自分は夫に何かを告げたことがあったろうかと。
いつも、言葉や行動を求めていたくせに、自分からそれを示したことはなかった。
どんなに慕っているか。どんなに恋しいか。
どんなに彼の妻となれて幸せであるか。
言葉にしたことが、あっただろうか。
きっと、喜久子がそれを告げたら、彼は穏やかに笑って、黙って頷くのだ。
「分かっているよ」
そんなこと、ずっと前からちゃんと伝わっていた……今さら何を言うんだ、とでも言うように。
だからこそ、言葉にすれば、よかった。
(愛している)
しかし、こんな大きな言葉を、板垣に伝えることが出来るだろうか。夫の愛に釣り合うほど、自分は妻として相応しかったろうか。
愛せていたかなんて分からないから、「愛してる」などと言えないのだ。愛されていた。それは分かる。
でも、自分も愛せていたかどうかが、分からない。何か言おうと思って自然に口に出るのは、その言葉ではない。
ただ、一つ言えるのは。
幸せだ、ということだ。
死を前にした夫、それを受け入れるしかない妻。悲劇の夫婦ともいえるこの状況で、喜久子は確かに幸せだった。
ずっと、幸せになりたくて、その為に、辛いことに耐えているはずだった。でも、気づいてみれば簡単なことだ。
板垣と生きることが出来て、いつも幸せだった。
あとはその日を待つだけだった。葬式もしない、墓もない。遺骨は人知れず海にばらまかれるという。
どれも、喜久子を苦しめるものではなかった。むしろさっぱりした気持ちだった。
ある日、何の前触れもなく一枚の葉書が届いた。
慣れ親しんだ、巣鴨からの板垣の便り。こちらの生活を気遣う優しい言葉と、いつもの遺言。そして、今日の便りにはまだ続きがあった。およそ手紙には相応しくない文体のそれを読み終えた時、喜久子は思わずその葉書を抱きしめた。
『気持ちというのは、君が思っているよりも格段に伝わりやすいものなのだ。なにも言葉だけではない。表情、仕草、周りの空気すらも使って、君は色々なものを伝えてくれた。大丈夫、充分伝わっている。そして、それが今、どれほどの支えになっているか、分からない。ありがとう。』
見慣れた夫の筆跡を何度もなぞる。
涙が溢れて止まらなかった。
最期の時まで泣かないと決めたのに。
「うれし涙だから……いいですよね」
────ありがとう。
そうだ、この言葉が相応しいように思う。
これで終わりではない。これからもずっと、喜久子は板垣に支えられていくのだ。
言葉、姿、存在すべてで。
自分が板垣征四郎の妻として、どうありたいか、やっと見つけた。
本当はとうに見つかっていたのに、今の今まで気づかなかった。
きっと夫にはすべて分かっていたのだろう。
いつだって、最初から、分かってくれていた。
遺骨も、葬式も、墓もいらない。夫は、喜久子の胸にこそ、還ってくるのだ。