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この手にぬくもりを

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「署名?」
「ええ、して頂けるとありがたいのだけれど」
 手渡された文書を途中まで読んだところで、喜久子は眉をひそめた。
「……ごめんなさい、お断りするわ」
 しばしの沈黙の後、喜久子は静かに答えた。
「成功するとは思っていませんよ。でも、やることに意味があると思うの、だから」
 なおも引き下がる勝子に、喜久子は苛立ちを隠せなかった。
「成功するわけがないことのために、頭を下げるなんて」
 そう吐き捨てた喜久子に、勝子は色めき立つ。
「どういう意味かしら?」
「そのままの意味です。……とにかく、他の方を当たって下さい。皆さんきっと協力して下さるわ」
 そもそも、まだ生きている人間の遺骨の話なんて、おかしい。喜久子はそう思った。
「そんな言い方をして。あなたの所だけ返してもらえなくなって、泣いても知りませんよ」
「結構です。葬式も、墓も作るなって言われたのに、戻ってきても困るだけですから」
 遺骨を返さないで、海にばらまいて捨てて、それをいい気味だと笑う低俗な人々だと笑ってやればいい。わざわざ忠告してやることなどない。
 どうして戻ってこないのか、なぜ海に捨てるのか。
 きっと怖いのだ。だから、それを笑ってやればいい。
 もともと戻ってくるなんて思っていない。戦場で死ねば、遺品一つ戻ってこないことだってある。覚悟の上だ。そんな心構えの人間の遺骨を返さない事で、復讐を果たしたと思うのなら、そう思わせておけばいい。
「そんなもの無くても、還ってくるもの」
 遠い目をしてそう呟く喜久子を前に、勝子は何も言えなくなった。反論したいことは山ほどありそうだったが、喜久子の目の光を目の当たりにして、黙ってその場を去った。
 結局、連名で遺骨返還請求を、という話は立ち消えになった。
 勝子としては、最近、妙に日本統治に対して、親切めかしているマッカーサーがどんな顔をするか、確かめてみたかったのだという。
 しかし、同じ境遇にあるはずの七人の家族それぞれの考え方、心境は、同じ悲しみを分かち合うには、既に隔たりすぎていた。

「ですから、たぶんそのお話が流れたのは、私のせいなんですよ」
 数日後、面会の帰りに木村兵太郎夫人可縫に会った喜久子は、そう言って苦笑した。
「私は、今のことで一杯一杯で、その後のことなんて、とても」
 俯く可縫を見て、喜久子も胸が痛んだ。広田弘毅もそうだが、可縫の夫木村も、絞首刑を予想されていなかったはずだ。判決の前にも、周りから大丈夫だと言われ続けていただけに、ショックは大きいのだろう。
 駄目だろう、と早くから覚悟を求められていた喜久子でさえ、やはり判決の瞬間までは、ずっと思っていたのだ。もしかしたら、と。
 どんなに分かり切っていても、心の隅で消えないその希望は、今では奇跡になっていた。今、どんな奇跡が起これば、板垣の死刑執行が行われなくなるのか、見当もつかなかったが、それでもその可能性を捨てきれなかった。
 もちろん誰にも言わない。表立って助命嘆願運動などもしない。
 どうしても、意地になってしまう。戦犯の家族、と一括りにされる今の状況が、とても嫌だった。来るべき日まで、自分は他の人とは違う、自分だけは平然と覚悟出来ているのだと、示し続けなければならない。
 早く来てしまえばいいような、永久に来なければいいような、その日まで。

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら