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この手にぬくもりを

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 昭和二十三年四月、東京裁判は結審した。
 喜久子の日課になっていた市ヶ谷通いがなくなり、板垣との面会の機会も減った。
 そして何より、判決を待っている、と言う現実が、大きくのしかかってきた。新聞は刑の予想を並べ、喜久子は半信半疑でそれを眺める。
 肝心の裁判所の判決は、一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、初夏になっても、一向に下される気配がなかった。

 そして結審後、半年近く経った十一月四日。
 市ヶ谷の法廷は久々の喧噪を見せていた。
 開廷五分前、被告が入廷する。自席に着きながら、それぞれ二階の傍聴席を仰ぐ。そして傍聴席の雛壇の中から、家族を見つけると、合図をする。開廷前の、お決まりの小さな楽しみの一つだった。
 あまり目立ったことは出来ないが、喜久子もじっと板垣の姿を見つめる。
 目が合うと、嬉しそうに目を細めてくれる。
 それだけで、幸せだった。
 毎日法廷に通った日々が、戻ってくる。月一回しか面会が出来ない巣鴨拘置所よりも、どれほど良いことか。
 たとえ、この法廷が最後の時を宣告する場へと向かっていたとしても。
 喜久子は「もしかしたら」と思っていた。二年に渡るこの裁判の流れを見ていてもなお、喜久子は奇跡を願っていた。
 今まで、喜久子の覚悟をよそに生き長らえてきたのだから、もう一度くらい、その覚悟を無駄にしてくれるのではないか。
 きっと、誰に言っても愚かだと思われるだろう。自分でもそう思う。これは公正な裁判ではない。被告を有罪にするための裁判なのだ。
 それでも、その瞬間が来るまでは。
 長い判決文の朗読が、いつまでも続けばいいと思う。恐ろしい言葉が並べられたそれを、喜久子は元から聞くつもりなどなかった。
 ここに来れば板垣に会える。
 刑の宣告までの秒読みに入ったと分かってはいても、喜久子は法廷に通わずにはいられなかった。
 
 被告全員の有罪が告げられた後、延々と判決文が読み上げられる毎日が続いた。
 それは、死の宣告が刻々と迫っていることを意味していた。判決文を聞いて極刑を覚悟するもの、自分だけはと祈るもの、様々だった。
 朗読される判決文は、裁判の初期に、喜久子が聞いてショックを受けた、検察側の論告の数々が、そのまま反映されたかのようなものだった。
 望みは、薄いように思われた。
 
 思ったより長くかかる判決に、喜久子の生活は再び市ヶ谷通いの毎日となった。
 拘置所に入れられ、裁判を受けている夫でさえ、家族、親戚、知人への配慮を事細かにしているというのに、喜久子の頭の中は夫のことで一杯だった。
 自分が至らない人間だと、思い知らされる。
 生きていくのに必死なのは、ひとえに夫に余計な心配をかけないため。
 こうして、無我夢中の裁判生活を過ごしてきたのだ。それも終わりに近づいたある日、長女喜代子の夫が亡くなった。
 喜代子は、戦時中に医師の白石喜久雄と結婚した。軍人ではなく、医者に嫁がせたのは口には出来なかったが、親の願いもこめられていたはずだった。しかし白石は、戦後身体を壊して入退院を繰り返していた。この裁判中も一進一退で、その容態は獄中の板垣が常に気に掛けていることの一つだった。
 家は忙しくなったが、喜久子は市ヶ谷法廷に行かないわけにはいかなかった。
 喜代子は泣きながら「お父様には黙っていて」と言った。判決前の大事な時だから、と周囲も、言わない方がいい、という意見で一致していた。
 しかし、最近の板垣の関心が、娘婿の容態だと知っている喜久子は、気が重かった。法廷までの道のりを歩く間、どう言うべきかと迷い続けていた。
 今まで一体、どれくらい嘘をついてきたのだろう。
 覚悟は出来ている、なんて嘘だし、一人でも大丈夫なんて、嘘だ。それでも喜久子は、金網の向こうの夫を見ると、本当の事は口に出せないのだった。

 法廷が、お昼の休憩を宣言すると、廊下を駆け抜け、被告控室に向かう。被告家族の、いつもの行動だった。
 慣れというのは怖いもので、この時間が楽しみになってしまい、廊下を歩く足が踊ることもあった。
 法廷に通えば会える毎日。それが、ずっと続けばいい、と思った事もある。
 判決文の朗読も終わりに近づいた今日、面会室は「最後かもしれない」と思う家族達でごった返していた。
 先を争って面会をしようとしているのかと思いきや、人の後について入り口に立つと、何人かが順番を譲り合っている。今までどんなに面会を待ちわびていようと、こんな時にもなぜか遠慮してしまうのが、育ちの良い御夫人達の性なのだろう。
 しかし、喜久子には「その人は今日で最後だから」「うちはまた巣鴨で会えるから」と気遣いや同情をされているように思えてしまう。
 まだ決まってなどいない、と一縷の望みをかけている喜久子は、それらを振り払って室内へ向かう。家族は、思い思いに隔てられた金網の外側と内側で合図し合い、空いている場所を探して向き合う。お互いの顔を見ようと視線を動かすたびに、三重に張られた金網がちらちらとした。
 開口一番、板垣はやはり、ここのところずっとお決まりの質問をした。
「どうだ、喜久雄君の具合は」
 嘘をつけ、と言われるまでもなかった。この状況で、どうして昨夜亡くなりましたなどと言えるだろう。明日には死の宣告がなされることを覚悟している夫に、余計な憂いを増やして、どうするというのか。
 動揺を悟られないように、喜久子は少し俯き、低い声で「落ち着いたようです」と答えた。
 金網を隔てているため、表情は悟られまいと思いつつも、しばらく顔を上げられなかった。
 板垣は、そんな喜久子を見て首を傾げた。何か変だ、とは思ったが、今が判決前であり、最後かもしれないからだ、と考えて、素直に妻のささやかな吉報を信じた。
「じゃあ、これから気長に養生するように伝えてくれ。喜代子にも彼を助けて二人で良い家庭を作るようにと」
 遺言みたいだ、と思った途端、喜久子の全身にぞくりと寒気が走った。
 そして、この優しい言葉を贈られた本人が、もう一足先にこの世にないと思うと、堪らなくなった。嘘をついたことに胸がキリキリと痛む。
 最後の別れの言葉を告げようとしている人を、騙しているかのような。
「申し訳ありません」
 喜久子は、顔を上げ、金網の向こうの板垣をしっかりと見据え、声を震わせた。
 すべてを含めた詫びのつもりだった。
 今日のことだけではない。振り返って見れば、今までにどれほど嘘をついたのだろう。彼にすまないことをしたのだろう。最後かもしれないと思うと、次々と思い浮かんでくる。
 妻として、至らなかったことばかりだ。
「あなたの一生を、申し訳ないものにしてしまって……」
 なんと言って良いか分からなくて、言葉が詰まった。
 こんな所で最後を迎えるような状況を招いたのは、喜久子のわがままなのだ。あの時、あんな約束さえしなければ、夫は潔く、自分の意志で人生を全うできていたかもしれない。
 妻である自分の愚かさが、すべての原因だったのだ。
 どんなことになっても、生きていて欲しいと。自分から可能性を断たないで欲しいと。その結果が、これなのだ。
「どうぞ、お許しになって下さい」
 喜久子は深く頭を下げる。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら