この手にぬくもりを
「そうですね、万里の長城を見たから、次はピラミッドかしら」
「わかった。……エジプト勤務になったらだけどね」
「いやだ、冗談ですよ。だいたい、エジプト勤務なんてあるんですか?」
彼女はカラカラと笑い、小さく「でも、どこでもいいんです」と付け加えた。
どうして、こんな事を思い出したのだろう。
その、どこでもいい旅行でさえ、数えるほどしかしていない。どれも転任に伴うついでの様なもので、純然たる旅行を楽しむ機会などなかった。いつかいつかと先延ばしにして来て、「いつか」とはいつのこと、などという無粋なことは互いに考えもしなかったが、もうその「いつか」は来ることがないだろう。
傍らの他人のやりとりから、どうしてこんなに意識が巡るのだろうか。義弟の呼び声に、ふと我に返る。長い時間が過ぎたように感じたが、実際にはそれほどぼんやりしていたわけでもないらしい。兼二の顔を見たら、何故かこんな言葉が出た。
「兼二、ピラミッド見たことあるか?」
唐突な質問に、兼二は答えに詰まった。兼二がエジプトに行ったことがないことぐらい、板垣も知っている。聞かずとも分かることなだけに、その問いの真意を測りかねた。
「ありませんが」
板垣は義弟の答えには軽く頷いただけで、すぐに裁判の打ち合わせに話を戻した。
その日、隣の夫婦を見ていた板垣の遠い目が、兼二の心に引っかかった。
姉に話してみようとも思ったが、第三者が触れてはいけないもののような気がして、口にできなかった。