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この手にぬくもりを

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 その日、板垣は弁護人の一人である義弟・大越兼二と、金網越しに打ち合わせをしていた。法廷は休廷中であったが、被告達は弁護人や家族との面会のために、連日市ヶ谷に通っていた。話をするうちにどちらからともなく留守宅の話題になり、兼二が言葉を選んでいると、ふと、義兄の意識が傍らの同僚に移ったのに気付く。その隣の面会者のことは、兼二も少し気になっていた。
 面会に来た元外相夫人が、涙ながらに家庭の逼迫した状況を訴えている。収入が全くない家計を嘆き、途方に暮れているようだった。夫はそれを必死になだめているが、彼とて、売れる家財は売り、借金が出来るならしなさいとしか言いようがない。それは被告達の家庭に共通した事で、珍しい事でもなかった。喜久子が自宅で洋裁の注文を取り、細々と収入を得ているのを、兼二は知っている。
 夫人は、借金なんかして、どうやって返すことができるの、とますます悲痛な声を上げた。
「返すさ、私はまだ六十にもなってないんだぞ」
 確かに、この人はきっとここから出られるのだろう。自分でも信じているからこそ、そう言えるのだ。盗み聞きは悪いと知りつつも、何となく目がそらせなかった。

 かつては外交官夫人、外務大臣夫人と、華やいだ世界の貴婦人だったのだ、今の窮乏は堪えられないのだろう。元外相が困り果て、そして胸を痛めているのが、同じく金網のこちら側にいた板垣にはよく分かった。
 しかし、こうやって正直に嘆いてくれる方が、幾分か気が楽かもしれない。収入を得る術など持たなかったなら、毎日針仕事に根を詰めさせることもなく、ずっと楽だったかもしれない。夜を徹してミシンを踏んでいるであろう喜久子のことを思う。
 外交官夫人。洋裁。そういえば、喜久子が洋裁を習っていたのは、北京時代だった。

 あの当時、手の掛かる小さな子供を三人も抱えての、慣れない海外生活を喜久子に強いることが、彼女のために良かったのか、板垣は悩んでいた。
 外国赴任に家族同伴が許されることになってから、まもなくの海外勤務で、家族を連れていこうと思うのは簡単だった。
 しかし、いざ赴任して暫く経ってみると、板垣の見えないところで、喜久子もいろいろ大変なのだと気付く。自分のわがままで、当然のように連れてきてしまったが、北京の乾燥した気候がなじまないのか、子供達は越してきた早々、次々と風邪をひいた。
 子供達の世話の他に、大使館の人々───外交官夫人、他の外国大使館の人々、現地
中国人との付き合いもあり、社交的な活動を絶え間なく求められていた。洋裁は、公使館の奥様方との付き合いで始めたようだった。
 板垣は北京駐在武官といいながらも、大陸各地を飛び回ることが多かったので、常には気に掛けてやることができなかった。それが少し心に引っかかっていたある週末、久しぶりに休みが取れた。少し泥臭いかとも思ったが、二人で万里の長城に行く事にした。
 北京から汽車に乗り、最寄り駅からは砂塵の中を驢馬(ろば)に揺られて登り口にたどり着く。望楼まで、緩やかな方の道を選んで登ることにしたが、喜久子にはだいぶきつかったようだ。このために着てきた、動きやすい支那服の肩が、大きく上下している。板垣は喜久子に手を貸しながら、一つ目の望楼まで登った。
 あの時の感動は忘れられない。
 板垣は初めてではなかった。もっと先まで登ったこともある。
 幾重にも重なる緑の稜線に添って、山向こうに見えなくなるまで、城壁が続いている。白く緩やかに曲線を描くそれは、遠くにゆくほどに、精緻な作り物のようにも見えた。雄大な自然を貫く果てしない人工物に、思わず息を呑む。
 その景色に臨んだ時の喜久子の笑顔と歓声が、胸を打った。来て良かった、と思った。
「せっかく支那に来たんだから、来てみたかったんです」
 望楼から左右を眺めながら、息を弾ませて礼をいう彼女が、身を乗り出しすぎないように注意しながら、ずっと考えていた。
 小倉に赴任したとき、東京に帰りたいと泣き言を言われたのが、つい昨日のことのようだ。それを諫めたのも自分だし、一緒に暮らせる限りは一緒にいたいと言ったのも、自分だった。
 あれから喜久子は、その手の不満をこぼさなくなった。北京に来てからも、一度も聞いたことはない。
 でもそれに甘えていて、いいのだろうか。
 彼女がこんな風に笑ったのを、久しぶりに見た気がして、余計にそう思った。
「日本に、帰ってもいいんだよ」
 喜久子がゆっくりと振り返り、目を見開いた。
「またお戻りになるの?」
「いや、君たちが」
 なんだか卑怯な言い方だ、と板垣は苦く思った。
 喜久子は微笑みながら、大きく首を振った。
「正直に言うと、こっちへ来てから、帰りたいとか、辛いと思ったことはあるんです」
 やはり、と胸がチクリとする。
「ですから……帰らせてもらえたら、楽になるかもしれませんけど……それ以上に寂しいと思うから」
 板垣は、ぼんやりと喜久子を見つめていた。胸の底から何かが沸き上がって来るような感覚がして、言葉が出なかった。彼女は少し頬を赤らめて、慌てて言葉を継いだ。
「大丈夫、子供達だって気候になじんできてずいぶんたくましくなったし、私も慣れてきましたから。最近は色々楽しくなってきたんですよ、外国なんて初めてだから見る物何もかも珍しいし……今日もほら、万里の長城に来てるのよ!」
 両腕を広げて、喜久子は笑う。
 ────きれいだ、と思った。
 背景は辺境の城壁、素朴な支那服。ほつれた前髪が額に張り付いて乱れている。華やかな要素は何一つなかったが、そんなことは関係ない。
 実際は、言葉になんて出来なかった。
 これは、なんという感情なのだろう。
 板垣が黙ったままなので、喜久子は怪訝そうに彼の方を見て、首を傾げた。少し視線を泳がせてから、遠慮がちに口を開く。
「あの、でも帰った方がいいって仰るなら……」
「違うんだ」
 とっさにそう答える。
 結局、喜久子のためだといって、本心から逃げているだけだと、認めてしまうのが怖かった。
 家族観とか、人生観とか格好つけたところで所詮、自分のわがままで一方的な望みにすぎない。
 それをさらけ出すには、勇気がいった。
 でも、ありのままでありたいと思う。
 夫婦だからこその願いだったが、夫婦だからこそ、相手を思うが故飲み込んだ言葉も多かった。しかし、喜久子が正直に本心を話してくれた誠実さには、それを以て応えたい。
「僕は……一緒にいて欲しいんだよ。全部僕のわがままなんだ」
 板垣はそれだけ言って、喜久子の表情をうかがう。彼女は驚いたように目を丸くした。その瞳がみるみるうちに潤む。ぎくりとした板垣に、喜久子は慌てて首を振って「嬉しい」と言う。同じだと分かったから、空回りではなかったから、嬉しい、と。少し恥ずかしそうに言う彼女を、愛しいと思った。

 今もきっと、同じだ。
 こんな風に自分が思っている分、彼女も思っている。
 それが分かるから、辛かった。

「また、どこかに連れていって下さいね」
 帰り道、喜久子が言った。どこに行きたいか尋ねると、少し考えてから、
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら