この手にぬくもりを
喜久子は、それと知って傍聴に来たわけではなかったので、戸惑う。
照明に煌々と照らされたのは、確かにあの溥儀だった。
見知った顔に少し懐かしさを感じつつ見守っていると、元皇帝の口からは次々と信じられない言葉が飛び出す。
満州を日本の支配下に置くために、溥儀を元首としておいて利用しようとした。その命を受けた板垣が、断れば命の保証は出来ないと脅迫したのだという。
強制、脅迫、支配。およそ喜久子が想像したこともない言葉が、板垣に対して並べ立てられる。
あの板垣が、溥儀の言うように厳格な態度で脅迫したなど、とうてい信じられなかった。
聞くまい、信じまいと思っていた法廷で飛び交う証言から、意識を離すことが出来なかった。
真夏だというのに、寒気を覚え、顔面蒼白になる。
違う。
声にならない声で、喜久子は何度もそう叫んだ。
休憩時間、今にも泣き出してしまいそうな体で面会に行くと、板垣が申し訳なさそうに出迎えた。
「驚いたろう。大丈夫かい」
何と答えて良いのか分からなかった。知ってはならないことを知ってしまったような、決まりの悪さがあった。
どうして、あんな事は口から出任せだと、はっきり言ってくれないのだろう。
重い沈黙が流れる。せっかく目の前にいるのに、貴重な時間が過ぎていく。
「このぐらいで驚いてたらいけないよ」
板垣は、そう言う。
それはどういう意味なのだろう。
まだまだ、検察側の悪意に満ちた立証は続くことを示しているのか、それとも。
一瞬浮かんだ考えを、喜久子は慌てて打ち消した。
そんなことがあるわけない。
まだまだ、板垣の身に覚えがあることが存在する、などという事は。
二人を隔てる金網が恨めしかった。
こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れることさえ叶わない。
だから余計不安になる。
目の前にいるのは、今までずっと慕ってきた、板垣なのだろうか。喜久子の知らない部分をたくさん持った「陸軍大将板垣征四郎」しか、そこには感じられない。
再会して数ヶ月。こんな風に会うことが出来る、ある意味、今までよりも恵まれた毎日のはずだった。
けれど不安になると、つい思ってしまうことがある。
ささやかで、贅沢な願い。
「……あなたに、触れたい」
この、冷えて震えている体を安心させて欲しい。ただ、この手を握りしめてくれるだけでいい。指先が触れるだけだっていい。
「喜久子」
何かを言おうとする夫の言葉を、遮る。
「妙なことを言って、ごめんなさい」
映画のような台詞を吐いた自分が恥ずかしく、喜久子は誤魔化すように頭を下げた。
そんな喜久子の小ささを、板垣はいつも大きく包み込んでくれていた。それが分かるから、辛かった。
いつものように、入廷の際に傍聴席に視線を走らせ、家族を探す。板垣の席は一番左端、傍聴席から見れば手前になる。席に着いてからでは、どうしても死角になる場所がある。それは、傍聴席からも同様だった。
だから、よく見える席を確保するため、喜久子などは朝早くから並んだりするのだろう。彼女は何も言わないが、板垣には分かっていた。
それが喜久子の負担になっているだろうことが、心苦しかった。自分は公判中にメモを取り、裁判の内容に注意しているが、検察側の言い分は、とても彼女の聞くに堪えるものではない。
心配は要らないから傍聴には来なくて良い、というようなことを手紙で出しておいたからか、今日は誰も来ていなかった。
少しほっとして、板垣は席に着いた。
昼食後の休憩中、突然「面会だ」と呼び出される。
行ってみると、金網の向こうに心配そうな顔をした喜久子が立っていた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「……心配で」
そう言って俯く。妻の手には、見覚えのある封書が握りしめられていた。先日、板垣が送った物だ。
「心配いらないと書いただろう」
「もう、来なくていい、心配はいらないなんて書かれたら、余計心配になります」
やつれた妻の顔を見ると、心が痛んだ。
「悪かった。本当に心配はいらないよ。それより、喜久子の方が心配だよ。顔色が悪い、疲れているんじゃないか」
喜久子はようやく、少し笑った。
「平気です。丈夫でたくましいのが取り柄ですから」
「……そうだったね」
それは、こんな事態を想定してなかった頃の、板垣の小さな失言だった。冗談めかして笑えるほどの年月が経ったことを嬉しく思う反面、切ない。
「あなたこそ、寒くなってきましたから、気を付けて下さいね」
「ああ、ありがとう」
それだけの面会。目の前にいるのに、触れることも出来ず、ただ見つめ合い、分かれる。終わり際、喜久子が遠慮がちに口を開いた。
「あなたが、私が聞くのは嫌だと仰るなら、そうします。でも」
喜久子の右手が、金網の縁に伸びる。
「何を聞いても平気です」
届くはずのない白い指が、板垣を捉えて離さない。
憲兵に促され立ち上がってもなお、視線をはずせなかった。
やはり心配をかけたことになる。
自分のせいで、迷惑を被っているのは喜久子の方だというのに、彼女は心配ばかりしている。
しかし、板垣には、喜久子の健康を祈ることしかできなかった。
昭和二十二年になると、検事側の立証も終わりに近づいてきた。来るべき弁護側の反証の準備も忙しく、市ヶ谷通いの慣れも手伝って、時は淡々と、しかしあっという間に過ぎていく。
「新しいどてらを作ってみたんです」
誕生日のお祝いもかねて、と、はにかむ喜久子の言葉で、ようやく自分が一つ年を取ったことに気づいた。とったところで、どうせ今年限りの命になるのだろう。
冷え切った独房内で、どてらに袖を通すと、その材質以上に暖かく感じた。