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この手にぬくもりを

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 五月四日早朝、極東国際軍事裁判二日目。喜久子は、一般傍聴人入口に一番乗りでたどり着いた。
 しばらく一人で佇んでいると、日射しが差し掛けるようになる頃に、傍聴人は二人になった。
「ご心配でしょう」
 後ろに並んだ、紺背広の若い男がそう話しかけてきた。
「いえ……」
 喜久子は、言葉少なく、俯いた。
 男は二十代前半で、被告の一人の甥だという。佐々木と名乗った。
「昨日は叔母が来たんですよ、僕は入れなくて。だからこうやって朝早く来たんです。奥さんは今日が初めてですか」
 喜久子は黙って頷いた。
「思いの外元気だから安心したと言っていましたが、だいぶ洋服がぶかぶかになっていたと、そればかり気にして」
 佐々木は背広のポケットから新聞を取り出しながら言った。
「本当に……」
 喜久子が控えめに相づちを打って聞いていると、もう一人、誰か近づいてきた。新聞記者が、感想を聞きたいという。喜久子が板垣征四郎の妻だと分かると、記者は俄然やる気で手帳を取り出した。
「何の通知もなく、突然、帰ってきたとの知らせで、嬉しいような、悲しいような……でも、一目と思って参りました」
 それだけ言って喜久子は深々と頭を下げた。
 未だに信じられなかった。ここに来れば会える、という妙な環境に放り込まれて、戸惑う。
 それでも渡された傍聴券を手に、朝一番に来てしまう自分に、少し呆れた。
 開廷前になると、順番に建物の中に通され、ボディチェックを受けて二階の傍聴席に通される。
 室内は煌々と照らされ、眩しいくらいだった。席に腰掛けると、不思議な感じがした。ここは法廷で、これから裁判が行われ、その裁かれる側に板垣がいるというのだ。
 開廷五分前、被告の入廷が始まる。
 今か今かと待つ間もなかった。真っ先に入ってきた板垣を、見間違うことなく捉えることが出来た。
 一年ぶりに見る、夫の姿だった。記憶の中の彼よりも、だいぶ痩せてやつれてはいたが、とりあえずほっとする。
 会えたという、安心感だけが先に立った。
 九時半に始まった公判は、起訴状の朗読のわずか一時間で終了し、閉廷。明日に持ち越された。
 少々拍子抜けの、長い裁判の始まりだった。

 この日の喜久子の法廷一番乗りは、新聞の記事になり、板垣の目にもとまったらしく、後で話題に出され、恥ずかしい思いをした。
 法廷に行けば姿が見られ、面会が出来る。勝手を知ってくると、裁判の内容にさえ目を向けなければ、思ったよりも静かな毎日だった。
 しかし、イヤホンが整備され、通訳も整ってくると、傍聴に行けば嫌でも様々なことが耳に入ってくる。
 それは、多くの日本人同様、何も知らなかった喜久子に衝撃を与えた。
 ここに訴追されている被告達は、侵略戦争を共同謀議し、計画し、準備し、開始したのだという。
 戦勝国による、敗戦国への一方的な断罪だと冷ややかに見守っていた多くの国民が、次々と暴かれる日本政府の実情に、茫然とせざるを得なかった。
 それでも喜久子は、しばしば法廷に通った。市ヶ谷の駅を出て、長い坂を登る。途中で「大変でしょう。お荷物をお持ちしましょう」などと声をかけてくるのは、被告の家族の感想などを聞いて記事にしたい新聞記者たちだ。
 それを軽く振り払って、喜久子は歩く。前を行く夫人に、挨拶をする。自然と顔見知りになっていたが、誰の家族かは、お互い敢えて名乗っていなかった。相手には、喜久子の素性は知られているとは思うが。
 彼女は、青い顔をして礼を返した後、何か言いたそうに喜久子の方をちらちらと見た。
 物珍しいのか、それとも同情だろうか。
 折しも法廷は満州侵略の立証の真っ最中で、気にすまいと思っても、逆に周りに気を遣われて参ってしまう。
「何でしょうか」
 やんわりと話しかけてみると、夫人は小さく息を呑んだ。そして、囁くように、言う。
「廣田さんの奥様のこと……ご存じですか」
「ええ、亡くなられたって、新聞に」
 それは見落としそうなほど、小さな死亡記事だった。
「どう思われますか」
「どうって……寂しいでしょうね、御主人は看取ることも、葬儀にも出られないなんて」
「ご存じないんですか」
 彼女は一段と声をひそめた。喜久子は何事かと耳を傾ける。そして、その耳を疑った。
「自殺なさったんです」
「どうして」
 喜久子が驚いて問うと、夫人は首を振った。
「すべてを諦めて先立たれるなんて、立派なお覚悟で」
「先にって、だって廣田さんは……」
 被告の中でも、白に近いだろうと予測されている人物だ。それこそ、満州、中国関連で大物扱いされている板垣は、極刑覚悟だというのに。
 そういう者の妻ならともかく、見通しの明るい廣田夫人が、なぜ死ななければならないのだろう。
 以前、似たような疑問を持ったことを思い出す。
 きっと廣田夫人には分かったのだ。全部分かって、全部伝わっていて、それが一番良いのだと、はっきり知っていた。
 だから、先にゆくことにしたのだ。
「お気持ち、よく分かるんです。そのくらいの覚悟がなければということですよね。でも、私には出来そうにないんです」
 夫人はそういって俯いた。
「そうね、私にもできないと思います」
 たとえ、近い将来に夫の死が訪れるのが確実だとしても、やはり喜久子には、その道を選ぶことは出来ない。
 生きてこそ、だと思う。
「人それぞれですよ。あまり気になされない方がいいわ」
 夫が裁判を受ける身になったのは、自分の愚かな考えのせいだ。それを償う術を、喜久子はまだ知らない。それは喜久子だけの罪のはずだ。
 だから、もう誰が誰のためにどうしたとか、どうするべきなのかを、他人の例に求めるのはやめた。
 喜久子はまっすぐ顔を上げる。

 廣田弘毅は無罪だろうという予測があること、そして夫人の死。帰宅後、とりとめもなく兼二に打ち明けてみる。
「甘いよ姉さんは。奴らは、全員有罪にするつもりなんだよ」
「そんなこと言って……」
「もしかしたら死刑になるかもしれないから覚悟しておけ、なんていうもんじゃないんだ」
 そう言われても、実感がわかない。そんなことよりも、今、実際に「犯罪人」だと言われて拘置所に入れられ、裁判を受けている現実を前にするだけで精一杯だった。
 連日、犯罪に荷担したと名前を挙げられていく。
 今は検察側の立証段階だ。まことしやかに言われることが、すべて真実であるはずがない。
 そう自分に言い聞かせる。最後には正義の裁きが下るのだと、喜久子は漠然と信じていた。即座に否定されるだろうから、誰にも言わなかったが。


 夏になると、法廷は、より具体的に動き始めた。
 検察は、満州事変の発端になった昭和六年九月十八日の柳条溝事件は、関東軍が満州を侵略するために起こした謀略事件であると断定した。さらに清朝廃帝愛親覚羅溥儀を元首とする満州国を樹立し、熱河省、内蒙古にも侵略の手を広げて、長城以南へ本格的に侵攻するための布石を築いたと。そして、それにもっとも積極的に参与した被告として名指しされた中に、板垣も含まれていた。
 満州国元皇帝、溥儀その人が検察側の証人に立ったのは、昭和二十一年八月十六日だった。
 大物の登場に、法廷は久々に活気づいた。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら