この手にぬくもりを
『花はやがて散るように出来ていて美しい
夕焼けも消えるものだと知っていて美しい』
詩人でしょう、と小柄なその老人は笑った。
「奥さんは歌人ですから、この程度の素人表現はお気に召しませんかな」
喜久子は首を振る。
「いいえ。素敵だと思います。私には表せませんもの。……死を受け入れる境地、でしょう?」
「本来なら、そうでしょうな。ただ、本庄君の筆ですからね」
そう言って、老紳士は髭を捻った。
「……そう、言い聞かせる」
「奥さんもなかなか手厳しい」
喜久子は慌てて口元を押さえる。
「そういうつもりでは」
「気にすることはない。生きても死んでも、言う奴は言う世の中。儂は、やましいことはしていない、と証明するためにも、行くことに決めてますからな」
明日出頭です、とカラカラと笑う相手に、喜久子は深く頭を下げた。
様々な人がいる。死でもって責任をとろうとする人。受け入れられずに死を選ぶ人。すべてを受け入れようとする人。覚悟する人、自分を信じている人。
それでも、もし帰ってきてくれるのなら。
いや、もし帰ってきてしまったら。
それは喜久子のせいなのだ。
なんと詫びたら良いのだろう。
今までわがままを言うばかりで、求めるばかりで何も言えなかったことを謝って、そして、伝える。
もう何も望まないから、好きになさって下さい。
そうしたら板垣はどうするだろうか。
短剣の刃のきらめきが、いつまでも喜久子の脳裏にちらついていた。
しかし、板垣に関しては一向に進展がないまま、年が明けた。
戦犯として逮捕される人間は後を絶たず、逮捕されずともGHQの尋問を受けたという話をよく聞いた。
昭和二十一年春には、すっかり、喜久子は板垣が帰ってこないものと思っていた。南方で抑留されたままなのだから、もし裁判があったとしても現地で行われ、何も知らないままあっさりと処刑されてしまうのかもしれない。
そんな恐ろしいことを考えるようになった頃、突然知らせが入った。
「義兄さん、帰ってくるんだよ」
息せき切って駆け込んだ大越兼二が、開口一番、そう叫んだ。手には、A級戦犯の裁判が開かれるという新聞報道を握りしめている。
「どういうこと?」
突然のことに、喜久子は戸惑いながら兼二を招き入れた。
「これ。裁判の被告二十八人。この中に入ってる。裁判は五月三日からだから」
嬉々としてまくし立てる兼二に、喜久子は飲み物を差し出す。
「逮捕、されたの?」
「ああ、だから近いうちに日本に戻ってくるよ、急だから弁護人もなんとかしなきゃならないし、色々連絡しなくちゃ……いてて」
喜久子は、兼二の手を思い切り抓った。
「逮捕されたんでしょう?」
「うん」
喜久子の表情を見て、兼二は神妙に頷いた。顔面蒼白で、目に涙をためている。
「じゃあ、どうして、そんなに嬉しそうに言うのよ」
早口にそう言って、喜久子は席を立ってしまう。兼二は、ため息をついて、一人つぶやいた。
「覚悟してたうちの、一番ましな形だから、嬉しいんじゃないか」