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この手にぬくもりを

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 彼女に限らず、竹下の家の人たちは、皆見目がよかった。特に綾子の父は西南戦争を戦った有名な美少年とかで、軍歌のモデルにまでなったという人だ。一度、見かけた時に、なるほど、あの父親からなら、ああいう美人が生まれるのも当然だ、としみじみ思ってしまった。
 男前の中尉がいかほどかは分からないが、やはり器量がいいのは得だな、と喜久子は鏡に映った自分の顔を思い出して、ため息を付いた。
「だからさ姉さん、僕の家庭教師っていうのも、案外姉さんの……ってそれはないかぁ」
 そこまで言って、兼二は笑い出した。
「ごちゃごちゃ言っても仕方ないでしょう。ほら、勉強する!」
 そう言って喜久子が、畳の上に仰向けに寝そべっていた兼二を、無理矢理起こして机に向かわせる。
「ちぇっ……」
 やる気の起こらない兼二は、机の上に突っ伏してしまう。
「そんなにやる気がないなら、軍人になんてなるのやめたら?」
 喜久子は、弟にはっぱをかける意味でそう言った。
「あなたは覚えてないかもしれないけどね、お父さま……軍人なんて、忙しくて帰りは遅いし、出張ばっかりだし、全然一緒にいられなくて、挙げ句の果てには戦争に行って帰ってこないのよ」
 家にいれば、生徒だ部下だ同僚だと招いて宴会を始めてしまい、子供は奥へ引っ込んでいるしかないのだ。大きな声のお客さんが、早く帰ってくれないかな、と子供の頃よく思ったものだ。
「覚えてないからこそ、かも」
「え?」
 兼二はぽつりと呟いてから、言葉を探すかのように少し考える。
「だから軍人になりたいんだ。父さんのことは何も覚えていないけど、でも、軍人になれば、父さんの経験したことが経験できて、父さんの見たものが、父さんと同じように、見えるかもしれない。父さんが何を考えていたのか、父さんのことが分かるかもしれない」
「何を、考えていたのか……?」
 黙って聞いていた喜久子は、突然声を震わせて、兼二の言葉を復唱する。彼には他意はなかったろうが、それは少し、喜久子の心の琴線に触れた。
 父が何を考えていたのか、知りたいのは喜久子の方だ。
 父についての記憶が全くない弟に比べ、父のことを覚えているとはいえ、ほんのわずかに過ぎない。そのわずかの記憶が、なぜか強烈で、わずかだからこそ喜久子を縛り付けていた。父の最後の言葉を、喜久子は忠実に守っていた。父に裏切られたような気がしてからも。
 
 父さんが帰ってくるまで、いい子にしていなさい、母さんの言うことをよく聞いて、
弟たちの面倒をよく見てやりなさい─── 
 出征の日の朝、喜久子の頭に大きな手を置いて、父はそう言った。
 本当のところ、喜久子は父の声の調子と、手の感触はとてもはっきり覚えているのに、その時の父の顔を覚えていない。一体、父はどんな表情で、どんなつもりで言ったのだろう。知りたいけれど、はっきり知ってしまうのも恐い。そんな疑問だった。
「分からなくていいのよ」
 それが分かるようになってしまったら、兼二も父のように、死ぬことを選ぶような気がして、恐くなった。
「分かるわけない、期待するのが馬鹿だわ」
 喜久子が急に険しい顔をして強く言い放ったので、兼二は面食らった。
「別に、それだけを期待してるんじゃないよ、理由の一つってだけ。そんなに真剣になることないじゃないか」
 何をそんなに怒るのか、と兼二は姉の顔を伺った。
 てっきり、喜久子は自分が軍人になるという夢を喜んでくれていると思ったので、兼二は戸惑う。小学校に入ったばかりのころ、大きくなったら軍人になるんだと言ったとき、母と一緒に、いや、母以上に感心して喜んでくれたし、兄が軍人にはならないと言ったときに残念がったのも、喜久子だったのだ。
 喜久子は、縁側に腰掛けて、こちらに背を向け、黙っている。兼二は姉が持っていた本が自分の側に放り出されているのを見つけて、手にとってめくってみる。最近彼女がよく読んでいるものだ。以前、世間を騒がせた曰く付きの歌集らしいが、兼二はよく知らない。
 短歌はよく分からないので、そのまま置こうと思ったが、ぱらぱらめくっていると後ろの方に散文のようなものがあるのが目に付き、何気なく読んでみる。
 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ
で始まる詩だった。
 これは兼二も聞き覚えがあった。……といっても、怪しからん、と家を出入りする人たちが言っていたので、ちゃんとした原文を目にするのは初めてである。
 なるほど、姉がこそこそ読んでいるのは、恋愛を大っぴらにしている過激な本だからだと思っていたが、それだけではないらしい。
 まさかこれを真に受けて、軍人なんて、と思っているのかな、と思い当たると、兼二はいい気持ちがしなかった。
「姉さんは入れ込みすぎだよ、まさかこんな詩に怖がったりしてるの?」
 振り返る喜久子に本を示して、一節を音読すると、
「やめて!」
彼女は頬を紅潮させて駆け寄り、本を取り上げようとした。兼二はそれをひょいとかわし、喜久子の手から逃れつつ、からかうように朗読を続ける。
「僕が軍人になったら、戦争に行って死ぬんじゃないかって怖いんでしょう」
 無邪気だった。まだ兼二には、戦死も軍人としては名誉なこと、ぐらいの認識しかなかった。その上、何かのために率先して、特に国のために死ぬという考えが素晴らしいものだという、教育の下地をごく普通に身につけている。だから、喜久子の心配を少し文学がかったものとしてからかった。姉の心の底など知る由もない。
「何を言うの、別にあんたが死ぬことなんて怖くないわ。返しなさい!」
 部屋の真ん中に置かれた机のまわりで、しばらく争ってから、兼二は縁側の方へ逃げ出し、庭へ降りようとした。まさにその瞬間に、追ってきた喜久子が手を伸ばし、彼の絣の背中を掴む。兼二はバランスを崩し、足だけが先に前に出た。勢いに引っ張られて前に倒れそうになった喜久子が思わず手を離すと、兼二の身体はそのままの体勢で真っ直ぐ下に落ち、そこにあった沓脱ぎ石で背中を強かに打った。衝撃と痛みに一瞬息が止まり、声も上がらない。
「いっ……」
 兼二は、ずるずると沓脱ぎ石から上半身を脇から下ろして地面にうずくまった。
「兼ちゃん!」
 喜久子が青い顔をして、足袋のまま縁側を飛び降りてくる。
「大丈夫? 怪我してない? ごめんね」
 兼二は、大丈夫じゃない……と思ったが、とりあえず衝撃による激しい痛みの第一波が収まるのを待つ。もう怪我をして泣くような年じゃないという自覚があったので、出てきそうになる涙をぐっとこらえた。
 兼二のその行動が、どこかひどいのではないかと思わせ、喜久子は半泣きになっておろおろしている。ようやく痛みが退いてきて身を起こしても、大丈夫? を連発する。打ちつけた瞬間はかなりの痛みだったものの、それが過ぎて大したことないな、と思い始めていた兼二は苦笑した。
「平気だよ。……ほら、やっぱり怖いんでしょう」
 なお、からかうように兼二が言ったので、本気で心配していた喜久子は頭に来た。
「そうよ、怖いわよ!」
 そう言って、兼二の肩を強く掴んだ喜久子は、目に涙を浮かべている。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら