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この手にぬくもりを

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 大越兼二は、赴任前の挨拶回りをしていた義兄を、偶然にもつかまえることができた。
 板垣は、開口一番、
「喜久子に余計なことを言ったろう」
と切り出した。咄嗟に思い当たらず黙っていると、板垣がため息混じりに言った。
「福岡で裕に会っていってくれと泣かれたよ」
 なるほど、と兼二はうなだれた。もう長くは持ちそうにないという長男を父親に会わせたいと言った喜久子に、「南方に行く際には、福岡辺りの飛行場で丸一日待たされるからその時にでも可能だ」というような事を、確かに言った。その時は板垣の昭南行きも本決まりではなく、出征することになったのかと姉が青くなったのを慌ててなだめて、終わった話のはずだった。
「見舞ってやらないんですか」
「待機中とはいえ、任務中だ。個人的な行動を取るわけにはいかない」
 きっぱりとそう言う板垣を前に、兼二は小さくなる。厳しい言葉を覚悟した兼二に降ってきた次の言葉は、柔らかかった。
「最期に一目、などという考えは、持たない方が良い」
「それは……」
 どちらの最期を意味してのことなのか、兼二にはそれが気になったが、板垣はその言葉をもっと広い意味で唱えているようだった。
「戻ってくる前に、正に会ったよ。朝鮮の航空部隊配属になってね」
「航空少尉……ですか」
 既に、航空部隊は特攻作戦部隊というに等しい状況だった。兼二はこの特攻作戦に以前から反対だった。必ず死ぬという戦法を、生身の人間に要求する、奇跡に縋るようなものを、作戦と言える訳がない。
 非常に気がかりではあったが、正が志願したのかどうかなど、口に出して聞けることでもない。ところが、板垣は自分から、感慨深げに言った。
「特攻を志願してくれたよ」
 きっとそこで、「これが最期だ」と思うことの不毛さを感じたのだろう。
 今、自分たちは、帝国陸軍軍人として、家族への愛情を打ち消さねばならぬほどの、大きな義務を背負っている。
 しかし、皆が皆その義務のために死んだとしたら、この歪な世界に残された彼女たちは、どうやって生きていくのだろうか。

 
 飛行機から降りると、懐かしい顔が待っていた。
 笑顔で握手を交わし、用意された自動車に乗り、軍司令部に案内される。
 形式的な引き継ぎを終え、幕僚を退出させると、部屋には四十年来の知己二人になる。
「浮かない顔をしている」
 開口一番、土肥原は板垣をまっすぐに見つめて言った。
 板垣は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの平淡な表情に戻る。
「今のこの状況で、浮かれる奴なんているわけないだろう」
「それはそうだが、……違うか?」
 どうして見透かしたようにこんなことを言うのだろう。全部吐けと言われているようで、戸惑う。そんなに気になってしまうことが、土肥原との長年のつき合いで一番の謎だった。しかし、今はその謎を真剣に分析しようとも思わなかった。もちろん、告白の言葉も、すんでの所で飲み込んだ。
「何でもない」
「言った方がいいのに」
 自分たちはもう、いつ死ぬか分からない。どう死ぬかは、ある程度自分で決められるとしても、死から逃れることは出来ない。
 胸の底にしまっておいたら、いつ無くなってしまうかしれない。
 土肥原はこれから帰国する身で、板垣は前線に残る身だった。今が、お互いの運命が分かれる時、二人はそう思っていた。再会出来るとは思っていない。
 自分が死んでも、相手は生き残るだろう、互いにそう思っていた。
「いや。……やめておく」
「人に言えないようなことか」
 二人でひとしきり、笑い合った。
 今生の別れのつもりで、板垣は飛行機を見送った。
 胸の奥が重く苦しいのは、何故だろう。
 あの日本へ飛んでいく飛行機の中に、この後悔と罪を託していれば、少しは楽になったのだろうか。

 喜久子のことは、何でも分かるつもりだった。
 顔を見れば何が言いたいのか大抵察しがついたし、何も言わなくとも気持ちは伝わると思っていた。
 今回の出征だって、分かり合えているのだと思っていた。しかし、喜久子は泣いていた。行かないでくれと、そう言ったのだ。
 彼女のこの言動は、板垣を動揺させた。彼女が辛いのは分かっていた。しかし、あそこまではっきりと意思表示をされたことはなかった。それは、お互い暗黙の了解事項で……いや、いつの間にか暗黙の了解にしていた自分に気づく。足元から突き上げる不安定な感覚に、慌てる。
「どうしたんだ、君らしくない」
 板垣が思わずそうこぼした途端、喜久子ははじかれたように顔を上げた。
 涙をこぼすまいと上を向き、震える声を必死で抑えながら、彼女は言った。
「私らしいって、何ですか。私がいつも、どんな気持ちでいるか、分かりますか?」
 分かっている、と、今までの彼なら即答出来たはずの問いだ。
 しかし、この時板垣は返事が出来なかった。
 分かっている、と思っていたのはただの自己満足だった。今までずっと、勝手に思いこんでいただけだったのだ。
 自分一人で分かったつもりになって、分かろうともしないで、満足していた。
 どうして分かってやれなかったのだろう。思い当たる節は少なくなかった。ずっと、板垣は、喜久子の本心を押し隠した表情のみ見ていたのに。
 それで、分かり合えていると浮かれていた。
 今さらそれに気がついたところで、それを償う術も、その機会も残されていない。
 板垣の心は深く冷たい淵に沈んだ。
 もし、どんなことをしてでも生きて帰ったのなら、喜久子は喜んでくれるだろうか。一瞬、詮無いことを考えた。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら