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この手にぬくもりを

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「東京に戻ってきているんだ。夕方には帰る」
 電話口でそう聞かされた時、心臓が一回、大きく跳ねた。
 それは、嬉しい出来事のはずだった。板垣が家に帰ってくる。いつも望んでいる事だ。
(違う。帰ってくるのではない)
 頭の中で何かがそう囁く。
 ────もう、帰ってこないのも分かります。
 以前、山下久子に聞いた言葉が脳裏に浮かんだ。
 帰ってくるのは、新たに行く場所があるからだ。今まで、そうやって多くの人が戻り、帰る希望もないまま発っていったのを、喜久子は知っている。
 もしくは、遠くには行かないにしろ、恐ろしいものを背負わされるか。ずっとそうしてきたように、今回も黙って見送るしかない。
 覚悟は出来ている。軍人の妻だから。今は戦時中なのだから。分かっている、全部。 私は大越兼吉の娘なのだから。
 一番嫌いだったはずなのに、いつの間にか必死に縋り付いていた。でなければ、顔を上げていられない気がした。

「寂しくなったなあ」
 板垣は、部屋を見回してそう言った。
「ええ、すっかり人が減ってしまって」
 以前なら、彼のたまの帰宅を、家族総出で迎えたものだ。それが今は、この家に残っているのは喜久子と三男の征夫だけだった。
 どんなに疎開を勧められても、喜久子は首を縦に振らなかった。この家を離れたら、夫が帰ってくる場所がなくなってしまう。
 持ち家でもなく、この土地に特別な思い入れがあるわけでもない。でも、どこかにこの場所を作っておかなくてはいけない。
 そうしていつか、板垣は帰ってくる。もう命令でどこかに赴任することもなく、深夜に帰り早朝には家を出るようなこともなく、本当に喜久子の元に帰って来るのだ。
 それが今ではないことは、よく分かっていた。
「あなたも、ここにいられるわけではないのでしょう」
「ああ、南方にね。明日には飛行機で発つんだ」
 喜久子は、膝の上で両手を握りしめた。予想していたことだ。いつものように送り出すだけだ。
 いつものように。そう、何を恐れることがあるのだろう。いつだって彼はこうやって帰ってきているではないか。いつも通り、喜久子が全部飲み込んで、黙って見送ればいい。
 なのに、この気持ちはなんだろう。ずっと、誰かが駄目だ、駄目だと言っている。
 これが、分かるということなのだろうか。
 そう思ってしまった途端、黒く冷たいものが喜久子の全身を駆け上がった。
(もう、帰ってこないのだ)
 根拠など何もない。信じてはいけない。
 そう思っても、圧倒的な「何か」を感じずにはいられなかった。
「喜久子?」
 彼女の様子が妙なことに気が付いた板垣が、名を呼びかける。喜久子は顔を上げ、夫の顔を縋るように見た。
 目が合う。夕闇の中、よく見えないはずの表情が、なぜかはっきりと分かった。
 その時、全てが繋がった。
 逆光で見えなかった父の表情が、今ならはっきりと思い出せる。
 あの時、どうして手を伸ばさなかったのだろう。良い子でいたかったから。嫌われたくなかったから。そして、何も知らなかったから、喜久子は黙って見送った。
 また、同じになってしまう。
 その瞬間、喜久子は口を開いた。
「行かないで」
 声が震えた。喜久子が取った板垣の手が、それ以上に震える。
「な、に……言ってるんだ」
 困らせている。軍人の妻としてふさわしくない振る舞い。呆れられる、嫌われるだろう。今はそれも怖くない。
 夫を失うことの方が何倍も恐ろしい。
「そんなこと、言うなよ……君らしくもない」
 ああ、やはりこの人は自分を分かってくれていないのか。喜久子は絶望に打ちのめされた。
「私らしく、ない? 私らしいって、……何?」
 喜久子は板垣の袖に縋り付いた。
「私がいつも、どんな気持ちでいるか……分かりますか」
 行って欲しくない。家を空けないで欲しい。偉くなんてならなくて良い、将軍にも大臣にもならなくていい。
 全部、いつか来る幸せのために我慢しているだけなのに。
「行かないで……」
 もう一度そう言って、喜久子は泣き出した。
 このままでは、そんな日は二度と来ないように思えた。
 どんなに頑張っても思い出すことが出来なかったはずの父の表情が、責めるように頭の中を巡る。
 そう、父はこういう表情をしていた。帰ってこないつもりの顔。帰ってこないための顔。
 だから、今行かせたら、板垣もきっと帰ってこない。
 板垣は、何も言えずに喜久子の肩を抱いた。どんなに懇願されても、頷くことは出来ない。慰めの言葉も見つからなかった。
「……ごめん」
 板垣は、短くそう言ったきり、口を閉ざした。
 そんな言葉が聞きたいのではない。喜久子は、板垣に抱かれながらそう思った。
 嘘でも良いから、いつかのように、「大丈夫、帰ってくるよ」と言って欲しかった。
 それが優しい嘘であることは、分かっていた。それでも、そう言ってくれることで、喜久子もまた軍人の妻らしく見送ることが出来たのだ。
 今は、それが出来ない。
 二人とも、正直でいようと思うほど、言葉が出てこなかった。
 ずっと昔に、夢見ていたことを思い出す。
 言葉に出さなくても、伝わればいいのに。
 喜久子は、板垣の手を強く握った。
 このぬくもりを、離したくなかった。この手は喜久子のものだ。あの日、ついていくと決めた時から。
 それが、夫に触れた最後だった。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら