この手にぬくもりを
『初めての給料は御母様にと決めておりましたので、送ります。こちらではお金を使う用などはございませんので、ご安心下さい。正は何も思い残すことなく、出撃の日を待つ身ではありますが、気がかりなのは御母様の御身でございます。御父様も出征なさった由、今一度、どうか疎開の件を考えては下さいませんでしょうか。どうか、正の最後のわがままと思って、お聞き届け下さいませ』
いよいよの電報を受け、福岡へ向かう汽車の中で、喜久子は次男からの便りを、読み返していた。同封されたお金には、どうしても手が付けられなかった。息子の最後の願いも聞き入れるつもりのない自分には、その資格はないように思われた。
「こりゃひどいなあ」
神戸を通過する際に、隣に座った男性が、窓の外を見てそう言った。赤錆びた鉄が山をなし、見たことがあるはずの町並みがすっかり無くなっていた。
「疎開ですか」
男にたずねられ、喜久子は首を横に振った。
「じゃあ、面会か見送りか何か」
喜久子は、黙ってもう一度首を振った。
「息子を、迎えに行くんです」
「せめて、福岡に寄られるのなら、裕に会ってやって下さい」
喜久子は頭を下げた。このくらいなら、と少し甘えがあったのかもしれない。
「それはできない。任務中だ。個人的な行動を取るわけにはいかない」
「でも、裕は」
「ごめん」
謝らせてばかりだ。悪いのは自分の方なのに。
最後になって、軍人の妻として相応しくない振る舞いばかりだ。
「いいんです。ごめんなさい、大丈夫ですから」
大丈夫なんかじゃない。この手を離せば、二度と触れることは出来ない。
────約束をして下さい。
いつかのように。そうすればきっと、この不安も消えるのだから。喉まで出かかったその言葉を、ついに言うことは出来なかった。
久しぶりに見た裕は、驚くほどやせ衰えていた。喜久子が苦労して探し求めてきた彼の好物も、弱々しい手で退けた。
「母さんが食べて下さい」
そんな皿を、悲しくてとても食べられたものではない。裕のあまりの衰えように、これは、夫に会って貰わなくて正解だったかもしれない、と思った。
細くなりすぎた体を拭いてやりながら、喜久子は父の出征を告げた。裕は軽く頷いただけで、何も言わなかった。
裕の手を握りながらうとうとしていた喜久子が、息子の声を聞き飛び起きる。裕はまっすぐ天井を見つめ、何か演説をするかのような口調で話していたが、喜久子には聞き取ることは出来なかった。
「なあに、裕。なんて言ってるの」
言葉の抑揚から、独逸語のようだった。喜久子がためらいがちに尋ねると、裕は薄く笑った。
堅く握った手が、さっと冷えて行くのが分かった。
冷たくなったのが、目を閉じた我が子の手か、血の気の引いた自分の手なのか。
喜久子はしばらく動くことが出来なかった。
昭和二十年五月六日、裕は二十三年の生涯を閉じた。
敗戦も知らず、その後の父の運命も知らずに逝った裕は、ある意味幸せだったのだ、と思う余裕が持てたのは、ずっと後の事だった。
帰京の途上、喜久子は、息子の最後の言葉を聞いてやれなかった申し訳なさで一杯だった。満員の汽車の中で、背負った骨壺が潰されそうになるたび、喜久子には、骨が鳴る音が裕の嘆きに聞こえて仕方がなかった。
喜久子が裕ぐらいの歳の時、明日が来ない事など考えもしていなかった。明日が来て欲しくない、と贅沢な悩みを持ちながら、遙か彼方の未来を、当然のように夢見ていた。裕も同じように、将来の夢を見て、生きてきたはずなのに、止まってしまった。
今まですっかり忘れていた、裕の様々な事が浮かんでは消えていく。裕の誕生は、板垣と喜久子の家族としての始まりでもあった。
そして、裕のいなくなったこの年、一つの終わりが訪れようとしていた。